
1964年頃、ディズニートランプの成功に気をよくしていた山内社長(当時)が、アメリカのカード(トランプ)業界を視察した際、その
トップ企業があまりにもショボかったため、業界の限界を悟ったというエピソードがある。
その後、山内社長は手当たり次第にいろんなチャレンジをするのだがことごとく失敗したという。今回はそんな任天堂の失敗の数々を紹介しよう。
<食品編>・インスタントライス お湯を注いで3分待つというインスタントラーメンのご飯バージョン。(電子レンジでチンでは無かった)。巨額な投資を行い大学施設で研究を重ね、「三近食品」という食品系子会社までつくり発売したものの、ドロドロですげえまずかったらしい。
・ポパイラーメン これも子会社名義。インスタントラーメン。ほうれん草味だったのかどうかは不明。
・ディズニーフリッカー 同じく子会社名義。ふりかけ。ネズミ味だったかどうかは不明(笑
<経営編>・ダイヤタクシー 1960年10月17日設立。ダイヤのマークが目印のタクシー会社。一説には山内社長(当時)が、運転手たちといろいろ交渉するのが面倒になり、やめてしまったという。名鉄に譲渡された。
・ラブホテル これはけっこう有名な話で、実際に複数の書籍にも載っていることなんだけど、名前とか場所とかいくら調べてもぜんぜん出てこないので、ねつ造なんじゃないかという噂もあります。まあ、参考程度で。
・射撃場 光線銃のヒットに気を良くした任天堂は1973年、レーザークレー射撃場システムを開発。ボーリングに代わる新しいスポーツレジャーとして70年代初頭に全国展開に乗り出すも、オイルショックのあおりを受け、莫大な借金を背負った。
<非ゲーム商品編>・ブロック 1968年、レゴブロックに対抗(パクリって言っちゃダメ)して「NBブロック」ってのを作った。期待されたよりは売れなかった。
・フラフープ 1969年、2人で同時に遊べる画期的なフラフープを発売。画期的過ぎた。
・サインペン 他、ノートや文房具類などを手がけるも、ノウハウが無かったことに気づいた・・・・・・
・乳母車「ママベリカ」っていうベビーカー。交通事故保険付きで登場。
(c) OpenCage・ラジコン 左にしか曲がらなかったらしい。(そこそこ売れたらしいが、商業的に成功とは言いがたかった)
・コピー機 1971年発売。「
コピラス」なる家庭用複写機。性能はショボいが安さで10万台くらい売れたらしい。しかしその後、やっぱりショボいということで返品の嵐。
どうせだからゲーム編も行ってみよう!
<ゲーム編(ファミコン前)>・レーシング112 1978年に三菱電機の協力を得て発売した112種類ものゲームが遊べるというテレビゲームマシン。しかし実際は似たようなゲームばかりで(実質3種類だったらしい)あり、人気は出なかった。
(C)任天堂・スペースフィーバー 1978年頃、全国的なインベーダーブームに、見事に乗り遅れてしまった任天堂が翌年、慌てて出した業務用ゲーム。その内容はハッキリ言って「スペースインベーダー」のパクリだったとか。しかし、まもなくインベーダーブームは去ってしまった・・・・・・
・コンピュータTVゲーム 1980年発売。任天堂ゲーム機史上、売上ワースト1にして、知名度もワースト1(こいつだけ極端に資料がないのだ)。詳しくは「
伝説の任天堂ワーストゲーム機、24万円で落札される!!」へ。
・レーダースコープ 同じく1980年、任天堂アメリカ(NOA)を発足した際、勢いで3000台つくったら2000台余っちゃったというアーケードゲーム。しかしこの出来事がのちの『ドンキーコング』を生み出すことになる。(
参照)
<ゲーム編(ファミコン後)> (以下、加筆&修正 2011/08/02 )・ディスクシステムのネットワーク構想 ディスクシステムは「カセットの時代からディスクカードの時代へ」というテレビCMと共に颯爽と登場。このとき任天堂は「今後カートリッジは作らない。ディスクシステムに専念する」という宣言までしていた。(
参照)
カセットの3倍の容量、セーブ機能、美しい音源、書き換えシステムなどを謳い450万台を売り、周辺機器としては成功をおさめたと言えるが、一番売れたのはファミコンフィーバー真っ只中だった初年度(86年)で、あとは尻すぼみだった。
その要因として考えられるのは、いちいちA面B面をひっくり返す行為やロード時間のわずらわしさもあるが、ソフトメーカー側が及び腰だったという点が大きい。クソゲーの氾濫をふせぐため、任天堂はメーカーに著作権の共有を主張したり、書き換えシステムでクソゲーを淘汰しようと考えていたのだ。
しかも書き換えは、わずか500円という安さ。ほとんどのメーカーが「それじゃあカセット売ってたほうが儲かるじゃん」ってなったのは言うまでもない。当然、問屋、小売店にしても旨みは少なかった。(
参照)
やがて技術の向上や、半導体価格の下落などの影響で、ディスクの容量を上回るカセットが登場(ディスクの容量は構造上増やせなかった)、セーブ機能や、拡張音源などが搭載されたものも現れ、ディスクの存在意義が消滅。(
参照)
結局、
カセットの時代からディスクカードの時代にはならなかったが、ディスクシステムが一定の役割を果たしたのは間違いない。
そもそも任天堂がディスクシステムを投入した最大の狙いは「壮大なネットワーク構想」だったと言われており、現にディスクシステムにはそのための端子まで備わっていたのだが、時期尚早だったのか、ついにその構想が実現することはなかった。
もしディスクシステムが衰退する前に、このネットワーク構想が実現していたら、また違った未来があったかもしれない・・・・・・
・バーチャルボーイ 任天堂の失敗ゲーム機の代表格としてしばしばネタにされているが、いちおう80万台近く(全世界合計で)売っている。思えばこのときから
任天堂と3Dの因縁が生まれたのかも。って、違うわ。ファミコンの
3Dシステム忘れてた(笑
なおバーチャルボーイに関しては、社長の岩田氏も、宮本氏も公然と「失敗だった」という発言をしちゃっている。(
出典)
・ニンテンドー64 売上台数的に、
プレステに負けたセガサターンにすら負けており、しばしば失敗の典型例と見なされることがあるが、借金をかかえるほど大コケしたわけではない。むしろ海外では成功している。今までゲーム業界のトップに君臨してきた任天堂が転落したという衝撃が、そんな印象を強めているのかもしれない。
その要因として「サードパーティ離れ」が挙げられる。『ドラクエ』や『FF』など人気シリーズが他のハードへ行ってしまったことが大きかった。本体発売後、同時に出たタイトルから、3ヶ月も新作が出なかったという事実が、そんな状況を物語っている。
結局、ゲームソフト総数で見ればファミコンやスーファミ時代の1000本越えとはいかず、わずか200本程度となった。(多けりゃいいってもんじゃないが・・・・・・)
・ゲームキューブ 頑なにロムカセットにこだわっていた任天堂がやっと光ディスクを採用したゲーム機だったが、時すでに遅し。下位互換性やDVD再生機能が無かったこともあり完全に落ち目。売り上げ台数的には
ニンテンドー64をも下回るという、悲しい結果に終わった。
しかしここからDS、Wiiのヒットで奇跡の復活を果たすことになる。ちなみにオロチは触ったことすらない。
なお、3DSを値下げした際、岩田社長はその理由を「ゲームキューブの教訓」としており、経営陣の間では「チャンスを活かせなかったゲーム機」という共通認識があるようだ。(
参照)
・3DS 異例の早期値下げで株価暴落。ただしゲーム機の値下げはよくあることであり(PSなど)、株価だって上がったり下がったりするので、異例でも何でもないという意見も多い。
したがって、この判断が功を奏し、大成功を収めた日には、失敗だと言ってたやつが恥ずかしい目に合うだろう・・・・・・(先に謝っておこう。ごめんね!)
まさに「失敗は成功のもと」って言葉がよく似合う企業・・・・・・
任天堂の失敗の歴史は「復活の歴史」と言い換えることができよう。
同社が3Dで成功する日はいつになるのか。楽しみである。
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