プレイステーション誕生のきっかけはディスクシステムだった!? SONYの革命児にまつわる歴史の妙


◆Amazonの1円本◆

 先日の日曜日、子どものサッカーを見に行った。

 試合と試合の間にけっこう待ち時間があるのだが、その間、他のママ友たちと気さくに喋っていられるほど私は気さくじゃないのだ。むしろ滅多に来ないレアキャラである。かといってスマホをいじってるわけにもいかず、じゃあ潔く本でも読もうかと思って、たまたま本棚から手に取ったのが1998年発行。麻倉怜士(著)「ソニーの革命児たち」だった。

soni-nokakumeijitati.jpg

 なんとこれ1円だったのですよ。(送料別)

 プレステとか中途半端に古い時代のゲーム業界の本はAmazonで1円で売ってることが多いのだ。私はこういう中途半端で誰も読んでないような本をあえて読むのが大好きである。プレステを題材にした書籍といえば、他に2008年発行。西田宗千佳(著)「美学vs.実利 「チーム久夛良木」対任天堂の総力戦15年史」や、2012年発行。「漂流するソニーのDNA プレイステーションで世界と戦った男たち」等が挙げられる。

美学vs.実利 「チーム久夛良木」対任天堂の総力戦15年史 (講談社BIZ)漂流するソニーのDNA プレイステーションで世界と戦った男たち

 これらの本についてまた機会を改めて紹介するにしよう。



◆なぜ、こんなものを、、、◆

 さて本題だ。本書「ソニーの革命児たち」はプレステの生みの親・久夛良木(くたらぎ)健氏を中心としたソニー側から見たプレステ誕生物語であり、言うまでもなくソニー側の視点で描かれていることに注意を払いたい。その中で、私が注目したのは、40P「任天堂への売り込みに奔走」の冒頭の一節である。

 「なぜ、こんなものを採用したんだろう」


 これは任天堂のとある製品について漏らした久夛良木の一言とされる。そう、1986年に鳴り物入りで登場した「ディスクシステム」のことだ。

 久夛良木は入社当時、デジタル技術を毛嫌いするソニーの古い体質に馴染めず、どちらかというと「はみ出し者」扱いをされながらも、液晶ピークレベルメーターや2インチフロッピーなどを開発。実績をつみながら「これからはコンピュータの時代が来る」と、同僚や先輩方にデジタル技術の重要性を説いて回っていたそうだ。彼はファミコンを出した任天堂にも注目しており「ソニーもゲーム機を出すべきだ」と力説することもあったらしいが、社内では誰も相手にしてくれなかったという、、、

 そんなある日、任天堂が大々的に発表したのがディスクシステムだった。彼はその性能を見て、以下のように語っている。

わずか300回転のディスクで、容量もたった64キロバイト。ランダムアクセスもできないもので、なぜこれを発売したのか理解できなかった。我々の開発した2インチフロッピーは、3600回転で1メガバイトの容量です。(略)任天堂は、こんないい技術があるのを知らないから、ディスクシステムなんか使ってるんだと思いましたよ。


 細かい数字に多少見解の相違があるようだがそれは重要なことではない。要するに久夛良木は「自分たちの技術のほうが優れている」と言いたかったのだ。そんな彼が次にどういう行動をとったのかお分かりだろう。「行動力の化身」と書いて「くたらぎ」と読む。なんと彼は一も二もなく京都へ乗り込んだのである。



◆風桶理論◆

 結局、最初のアプローチは実らなかったようだが、その後、彼が任天堂へ売り込みをかけたPCM音源システムが御眼鏡にかない商談が成立。晴れてスーパーファミコンに採用されたのだった。ちなみにこの件で本書は「ファミコンはFM音源だった」と記載しており、「聴き比べ対決までした」と書き散らしているとAmazonの評価欄にて指摘されているのを見たが、これは(話の流れから)ディスクシステムのことを指しているのだろう。※ ディスクシステムの音源については「FM音源ではない説」が根強いものの、現在では「FM音源の一種といえる」という見解が再び支持されている。詳しくはググってちょ。

S-DSP_A_01.jpg
出典:スーパーファミコンに積まれた制御用チップ(Wikipedia

 そんな久夛良木の猛烈アタックからはじまったソニーと任天堂の蜜月関係は、やがて「SFC専用CD-ROM計画」として結実する、、、はずだった。あえて経緯は詳しく書かないが、なんやかんやで結局、この計画は頓挫。いい意味で諦めがわるかったソニーが単独でゲーム機を開発することになったことはあまりにも有名な話。(

 ――1994年12月、プレイステーションの誕生である。

diskpsni.jpg

 「風が吹けば桶屋が儲かる」とはよく言ったものだが、色んな意味でゲーム史上最大の奇跡みたいな存在であるディスクシステムが、久夛良木に「自分たちの技術を売り込める」と商機を感じさせるくらいの性能だったことが、任天堂へ営業に行くきっかけをつくり、それがなかったらPCM音源がスーパーファミコンに採用されることもなかったかもしれない。当然、そのつながりで生まれた「SFC専用CD-ROM計画」もなかったであろう。いや、これに関しては実際に"なかったことになった”のだけども(ああ、ややこしい)、そんな挫折がなければ、ソニーが単独でゲーム機を出すこともなかったわけで、、、

 つまり、プレイステーションが誕生したのはディスクシステムがあんな感じだったおかげだと捉えるならば、何とも“歴史の妙”だなあと思ったという話。あくまでも私のささやかな読書感想文である。

 、、、おっと、そろそろ息子の試合が始まるようだ。今日はこのへんで本を閉じることにしよう。続きはまた別の機会にでも。


ソニーの革命児たち―「プレイステーション」世界制覇を仕掛けた男たちの発想と行動
麻倉 怜士
IDGコミュニケーションズ
売り上げランキング: 626,860




orotima-ku1.pngSFC互換機版プレイステーションが実現していれば、ファミコンでいうツインファミコン的なポジションになるはずだったみたいやね!


このエントリーをはてなブックマークに追加  

教育評論家やスポーツタレントが「eスポーツ」に戸惑う理屈


 日本はいまだにeスポーツ後進国と呼ばれているらしい。さっそく調べてみたら過去には人気教育評論家が「eスポーツって本当にスポーツなの?!」と疑問を呈したり()、有名スポーツタレントが「スポーツってのは全身を使うもの」とTVで否定したり()して物議を醸していた。戸惑っているな、という印象だ。

 たまたまではあるが教育関係者やスポーツ関係者が戸惑っているというのが象徴的ではないか。「教育」と「スポーツ」この2つのワードを悪魔合体させてみると、あら不思議。出来上がるのは「体育会系」という謎の風習なのだ、、、

 ※ここは、この2例を見ただけで全体をそう決めつけているわけではなく、あくまでもこの2例がきっかけとなって、そのような発想をしたと言っているだけです。以降はそう仮定した場合、どうのような答えが導き出せるかという話をします。

体育会系(たいいくかいけい)とは、大学などの課外活動の分類の一つ。 転じて、それらに属する人々やその性格・気質の総称。 反対語は文化系。


 一般に体育会系気質の特徴として「隷属的」「全体主義」「根性論」という3つのキーワードが挙げられる。彼らは上下関係や礼節に厳しく、上の者には絶対に従わなければならないと信じており、喜びも悲しみも皆で分かち合い、個々が皆のためにがんばろうという全体主義が大好きで、根性さえあれば、夢さえあれば、ポジティブな気持ちさえ失わなければ、ひとは何でも乗り越えられると教えられてきた。そこには単純な構図がある。教育者にとって教えられる側の人間がそのような状態のほうが都合がいいのだ。



 歴史をひも解くと、スポーツには「都合のいい管理体制を築き上げるため」に教育に利用されてきたという側面があった。しかも利用する側、される側の多くはそれに無自覚である。なぜならそれは決して悪いことではないからだ。自覚する必要がないのである。したがって冒頭の教育評論家やスポーツタレントの戸惑いは、そんな聖域がビデオゲームに侵されそうになっていることへの直感的な嫌悪の発露であろう。プロのeスポーツ選手の多くは非常にストイックで、日々、研鑽を積む姿は一流アスリートとなんら変わらないことを、彼らは知らないのだ。(たとえ知ったとしても余計に戸惑うだけかもしれないが)

 一方、eスポーツはeスポーツで、今まで「楽しいだけ」の文化系娯楽だったビデオゲームが体育会系の文脈に組み込まれることへの戸惑い(主に享受する側の)を内包しているように見える。そもそも体育会系という概念が生まれなければ文化系という概念も生まれなかったのだから、きっと根っこは同じなのだろう。




orotima-ku1.png体育会系ノリは苦手ですがスポーツは好きです


このエントリーをはてなブックマークに追加  

テレサは何のお化けなのか 【スーパーマリオをめぐる雑考】 4/4


とくにオチはない雑考シリーズ。民俗学/宗教/オカルトが大好物なオロチが「スーパーマリオ」の世界観について、とりとめないない話をする最終回です。



◆ひとは「恥」を知る◆

 ひとは死んだらどうなるのか。太古の昔から宗教だけがその問いに答えて来た。キリスト教ではひとが死ぬと神のみぞ知る場所で眠らされ「最後の審判」の日に復活すると言われている。したがって厳密に言えば幽霊の存在は認めていない。では、西洋ベースのマリオ世界はお化けのキャラクターである「テレサ」の存在をどう説明するのだろう。

teresa01.jpg
 ※照れるテレサ(マリオ3)

 前章()で述べた通り、マリオの世界は往々にして「人間vs動物」という構図を描いてきた。そんな中、人間側(主人公サイド)でありながら動物の力を借りて戦うマリオのダークヒーロー的な姿は物語に深みを与えている。そう考えるとテレサが元々人間だったのか、動物だったのかという問いが重要性を帯びてくるのだ。

 テレサは白い魂状の体からちょこんと手が生えている極めて西洋的なゴースト型の幽霊である。Teresaというスペイン系の女性名でありながら性別不明で、その由来はキリスト教の聖人マザー・テレサとは無関係であり照れ屋だからテレサ。その名に違わず「目が合っている間は照れる」という奥ゆかしい性格が最大の特徴だ。

 ここで旧約聖書の創世記第3章10節を引いてみよう。

彼は答えた。園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです。

 それまで動物と同等のくらしをしていたアダムとイブが蛇にそそのかされて禁断の果実を食べた際、はじめに湧いたのは神に裸を見られて「恥ずかしい」という感情がだったのだ。つまり聖書は「恥ずかしい」という感情が人間特有のものであることを説いているのである。これはかなりの大ヒントだ。



◆人間型のお化け◆

 テレサは元々人間だったのだろうか。『3』以降、ブロックテレサ(『ワールド』)、ボムテレサ(『ギャラクシー』)、ダークテレサ(『RPG』)など様々なバリエーションのテレサがシリーズに登場したが、2001年にマリオ世界のお化けを語る上で外せない作品が満を持してリリースされた。GC版『ルイージマンション』(2001年)である。

obakemario03.jpg
 左上からパパーラ、ママーラ、ベビーラ、スプーキー

 ルイージがお化け屋敷に閉じ込められたマリオを助け出すことが目的のこのゲームには様々な種類のお化けが出演している。その姿はテレサやキングテレサ、ヤプー、マプー、モプーといったゴースト型、パパーラ、ママーラ、マダム・ミエールなど人間型、物体に取り憑くものまで千差万別だった。

 その中でパパーラの解説文に以下のような決定的な一文があるのだ。

読書ずきで、オバケになったいまも、読みのこした本を読みつづけている。せいぜんは、しょうせつかだった。

 元々人間だったことが公式アナウンスされたお化けキャラクタの登場である。本作はスピンオフ作品ではあるものの、(コンセプト的に避けて通れなかったとはいえ)ここまで人間の「死」について踏み込んだ解説がされるのは珍しい。しかもベビーラに至っては「生まれたときからオバケだった」というミステリアスな設定である。一方、動物はどうかというとスプーキーという犬型のお化けが存在することから、マリオ世界の動物はそのまま動物型のお化けになる可能性が高いことが推測できる。

 そうなってくると「恥ずかしがり屋」という極めて人間的な性格をもちながら人間型でも、ましてや動物型でもないテレサの存在が、ますます謎を深めていくのだ。もしかしたら昆虫や微生物といった低級霊、あるいはよりスピリチュアルな高次元の存在なのかもしれない。

obakemario06.jpg

 そう考えると同作のなかで肖像画(人間型)の幽霊たちが、まるで自分たちが第三者の立場であるかようにテレサたちを「やつら」と呼んでいたことが想起される。この距離感の正体は何だろう、、、



◆テレサ種族説◆

 数あるテレサ亜種の中で言及しておかなければならない存在といえば64版『マリオストーリー』(2000年)に登場したレサレサであろう。

mariotanuki05.jpg

 彼女は森の屋敷に住み、流暢に人語をあやつり、嬢様キャラという性格をもっているなど、他のテレサとは一線を画したテレサ亜種だ。そもそも『マリオストーリー』自体、マリオと敵対しているはずのクリボー、ノコノコ、ボム兵などにクリオ、カメキ、ピンキーといった固有名詞や人間のような個性をもたせている番外的作品ではあるのだが、『マリオカート』シリーズではアイテムにされるなど敵キャラとしては微妙な立場だったテレサが他のキャラクターと同等の扱いを受けている点のみに焦点を絞るならば、レサレサ(&セバスチャン)は非常に意義のある存在となってくる。

 ここに、そもそもの問いが間違っている可能性が見出されるからだ。つまりテレサはお化けであることには違いないのだが、誰かが死んでそうなったわけではなく最初から「オバケという種族」なのかもしれないということだ。他の人間型幽霊たちがテレサたちと距離を取っている理由もこれなら頷けるのである。

obakemario05.jpg

 それこそ「テレサの王」と呼ばれるキングテレサの存在も、これが実際に「テレサの国を治めている王」という意味なのだとしたら、テレサ種族説を後押しする傍証のひとつになりうるであろう。



◆オバケマリオの謎◆

 テレサ種族説はこんな答えも提供してくれる。Wii版『スーパーマリオギャラクシー』(2007年)に登場したオバケマリオについて、マリオが仮に死んでいるのではなく、テレサという種族の力を借りている状態だと解釈できるのだ。しかしオバケマリオには他の変身マリオと明らかに違う特徴があった。それはグラフィックを見れば一目瞭然であろう、、、

atari1.jpg

 他の変身マリオがあくまでも着ぐるみ然としたコスプレ姿であるのに対して、なぜかオバケマリオだけ完全にお化けの姿になるのである。これは一体どういうことだろうか。

 おそらくオバケマリオは中へ乗り込むタイプの着ぐるみなのだろう。よく考えてみたらマリオはゲームの主人公の宿命で、冒険中にたびたび死ぬのだが、一度たりとも幽霊になっていないのだ。もちろん前章()で述べた通り、マリオのミスは「死」ではなく「退場」なのでそもそも幽霊にはならないという解釈もできるのだが、もし仮に死んだとしても、マリオは人間なのでテレサのようなゴースト型ではなく人間型の幽霊になるはずである。これは明らかな矛盾なのではないだろうか。


 🐍🐍🐍


 以上。4回に渡ってお送りした雑考シリーズ「マリオ編」。何となく決めた4つのテーマについて、思いついたことを並べただけのエントリーなので、正直、話が思ってた流れと違う方向へいってしまったり、考察が甘いところもあると思う。4つのテーマについて、どうか皆さんの忌憚のないご意見をお聞かせ下さい。




orotima-ku1.pngよろしくお願いします!



【スーパーマリオをめぐる雑考】 全4回
1.タヌキスーツの異質性
2.なぜマリオの敵は動物なのか
3.マリオ世界の「死」について
4.テレサは何のお化けなのか

このエントリーをはてなブックマークに追加  

マリオ世界の「死」について 【スーパーマリオをめぐる雑考】 3/4


とくにオチはない雑考シリーズ。民俗学/宗教/オカルトが大好物なオロチが「スーパーマリオ」の世界観について、とりとめないない話をする第3弾です。タイトルを少し変更しました。



◆ゲームは「死」の教科書◆

 ゲーム世界での「死」はデリケートな問題だ。私の息子たちはコントローラを握りながらときどき不穏な会話をする。そいつはお前が殺して。俺はあいつを殺すから、、、その都度、私は静かに諭すのだ。「倒す」と言いなさいと。思えばドラクエシリーズは決してモンスターを殺すと表現しなかった。その代わりではないが、FC版『ドラゴンクエスト2』(1987年)ではプレイヤーが全滅してしまった際に王様から「死んでしまうとは情けない」というシュールな説教をくらうのだ。同じ年にリリースされた『桃太郎伝説』では敵を倒した際に「こらしめた」と表現するなど死のイメージが徹底的に排除されていた。一方、ファイナルファンタジーシリーズは『3』までHP0の状態を「しぼう」と表現したが、『4』以降は戦闘不能と改められている。

 死に様でいうと『魔界村』のアーサーは敵に一度当たると裸になり、二度当たると骸骨になる。『ドラゴンズレア』の主人公も基本的に骸骨になって死ぬのだが杭に押しつぶされて圧死した場合のみ、なぜかナメクジになってしまう。『ゴルゴ13』に至っては生身の人間であるはずなのにミスしたら爆発する。ゲームは「死」について多くの示唆を与えてくれる教科書なのだ。

 では、今回のテーマであるスーパーマリオシリーズは「死」について、どのように表現して来たのだろう。

mariotanuki06.jpg

 マリオのデビュー作である『ドンキーコング』(1981年/AC)の死に様は、その場で狂ったように回転したあと昏倒し、天使の輪のようなものが頭上に浮かびあがった。これは明らかにキリスト教の影響を受けた西洋的な記号表現である。ファミコン版『ワルキューレの冒険』はもっと露骨で、やられたら十字架のお墓になってしまったことが想起される。このような西洋的な「死」の演出は初期ゲームの世界ではよく見られた。

 しかし、その後のマリオ作品からは特定の宗教に影響を受けたような死に様は見られなくなっていく。



◆手前に落下するという演出◆

 マリオの名が冠された初のビデオゲーム『マリオブラザーズ』(1983年/AC)の場合、マリオは敵に当たるとビックリした表情で固まったあと、おもむろに正面を向いてその場で大きく飛び上がり、今までどんなに走ったり跳んだりしても決して足を踏み外さなかった手前側へ落下していくのだった。

marionosi01.jpg
 ※画面はファミコン版

 そのあとが面白い。マリオがそのまま画面下端まで落ちていったとき水しぶきが上がるのである。池なのか下水道なのか不明であるが、実はマリオブラザーズのステージの下には水面があったのだ。

 手前に落下するという死に様は『ドンキーコングJR.』(1982年/AC、)、『バルーンファイト』(1984年/AC)など他の任天堂作品にも見らる。興味深いことに両作品の画面最下部は、あからさまな水面だったのだ。(『JR.』は1面のみ)

marionosi02.jpg
 ※画面はファミコン版

 もしかしたら『マリオブラザーズ』のマリオが落ちて水しぶきを上げる演出は、『ドンキーコングJR.』の文法なのかもしれない。

 ちなみに同じく任天堂作品『アイスクライマー』(1985年/FC)の場合、ミスしたら一旦雪の結晶になってから、やはり画面の手前へ回転しながら落ちていった。どうやら任天堂作品には「画面の手前に落ちる=死(ミス)」という記号的共通パターンがあるようだ。



◆マリオは「落とし合い」なのか◆

 任天堂がファミコンへ移植したことで知られる『スパルタンX』(1984年/AC)でも、手前に落下するという死に様が見られる。しかしこの作品の場合、ステージが楼閣の縁側だったことに注目したい。この場所だと「やられたら落ちる」という動作に必然性があるのだ。つまり極端な言い方をすればこのゲームは最初から「落とし合い」なのである。

marionosi03.jpg


 そういう意味では『バルーンファイト』も落とし合いゲームなので、この演出に違和感がなかった。しかしマリオシリーズはとくに落とし合いゲームという内容でないにもかかわらず、その後も『スーパーマリオブラザーズ』『ランド』『ワールド』『NEW』等、いわゆる2Dマリオにおいて、執拗なまでにこの「死に様」演出を貫き通しつづけるのだった。

 水しぶきこそ上げなくなったものの、そこには一体どういいう狙いがあるのだろう。

marionosi04.jpg
 ※各2Dマリオの死に様

 この事実からマリオは極端に幅が狭い世界を冒険していると解釈されることもあるのだが、それでは城ステージや海ステージの説明がつかないだろう。つまり2Dのマリオはミスするとわざわざ第3次元の壁を突破してまで画面の手前に落ちてみせているのだ。この少々芝居じみたメタ演出から、あえて意図を汲み取るならばそれは「死」よりも「舞台からの退場」という意味合いの強調であろう。

 一番わかりやすいのは『3』である。同作品はオープニングで絞り緞帳(赤いカーテン)が上がり、障害物がボルトで止められ、吊るされ、うしろに影が映るなど舞台のセットを思わせ、ゴールは真っ暗で舞台裏を思わせる。

marionosi05.jpg

 明らかに『3』は舞台演劇を意識したゲームデザインとなっているのだ。つまりマリオシリーズは、あえてミスしたときなどに舞台演劇を思わせるメタ演出をすることによって「死」のイメージを緩和させていたのである。さしずめ彼は大袈裟に舞台からはけていく喜劇役者といったところか。



◆突然のリアル路線&回帰◆

 そんなマリオの死に様に革命が起きたのは『スーパーマリオ64』(1996年)だった。

 同作品でマリオは突然リアルな死に様を見せるようになったのである。しかも『64』での彼の死に様には無数のパターンが存在し、ファンから「黒い任天堂」と揶揄されるほどであった。中でも口を押さえてもだえ苦しみながら息絶える溺死はトラウマレベルである。

marionosi056.jpg
 ※64で溺死するマリオ

 このリアル路線の死に様はその後の3Dマリオ作品『サンシャイン』『ギャラクシー』などに引き継がれていった。

 スーパーマリオシリーズもドラゴンボールのようにリアル路線へ変更したということだろうか。もしかしたらそれは、ただ単に3Dになったことで表現の幅が広がっただけなのかもしれない。どっちみちマリオシリーズは3DS版『3Dランド』(2011年)及びWiiU版『3Dワールド』(2013年)でひとつの答えに到達することになるのだから、、、

marionosi09.jpg
 ※『3Dランド』でのマリオの死に様(ゲームオーバー)

 これらの作品は3Dマリオの系譜に位置づけられるシリーズであるのにかかわらず、ミスをすると大袈裟に飛び上がったあと画面の外へ落ちていくという「2Dマリオの死に様」を採用しているのである。さらにゲームオーバーのときは決定的だ。最終的にマリオは何もない空間に落ちてきて「GAME OVER」の文字が浮かび上がると同時に両手を上げるポーズをするのである。つまり彼は「死んだ」のではなく「退場」なのだということが、ここに明確に示されたのだった。

 もっと言えば、彼は3D世界でさらに違う軸へ落ちていくのだから第4次元の壁すら突破したことになる。これは地味に画期的なことだ。なお、この「3Dマリオなのにミスしたら違う軸へ落ちる」という演出はNS版『オデッセイ』(2017年)にも引き継がれている。

marionosi08.jpg
 ※『オデッセイ』での死に様

 参照動画:EVOLUTION OF MARIO DEATHS & GAME OVER SCREENS + Super Mario Odyssey (1983-2017 - NES to Switch) - YouTube



orotima-ku1.png記事はオチないっていうね



【スーパーマリオをめぐる雑考】 全4回
1.タヌキスーツの異質性
2.なぜマリオの敵は動物なのか
3.マリオ世界の「死」について
4.テレサは何のお化けなのか

このエントリーをはてなブックマークに追加  

なぜマリオの敵は動物なのか 【スーパーマリオをめぐる雑考】 2/4


とくにオチはない雑考シリーズ。民俗学/宗教/オカルトが大好物なオロチが「スーパーマリオ」の世界観について、とりとめないない話をする第2弾です。



◆「人間vs動物」という構図◆

 ファミコン版『スーパーマリオブラザーズ』のジャケットは宮本茂氏本人が手掛けたとして有名である。改めて全体を眺めてみると、これが「人間vs動物」という構図であることに気づかされるのだ。

maripakke-jisu-pa-mariobros0.jpg

 マリオは常に動物たちと戦ってきた。デビュー作『ドンキーコング』では怒り狂うゴリラに挑み、『マリオブラザーズ』ではカメ、カニ、ハエの相手をし、『スーパー』にてカメの親分と運命的な邂逅を果たすのである。それからはずっと寝ても覚めてもカメ一族との戦争に明け暮れる日々だ。

 『USA』のヘイホーや『ランド』のタタンガ、『ランド2』のワリオ、『レッキングクルー』のブラッキーや『ヨッシーアイランド』のボドローなど、人間型(に見える)敵キャラクターも一部登場しないではないのだが、いずれの作品もシリーズの中では外伝系なポジション、あるいは派生作品とみなされているところに注意を払いたい。またマリオは『マリオカート』『スマブラ』といったスポーツ/格闘系の作品では多くの人間型キャラクターと対戦していることも忘れてはならないだろう。しかしながら彼の“冒険譚”に限ってまなざしを向けるならば、その物語はつねに、執拗なまでに「動物たちとの戦い」を中心に描かれて来たのである。これはただの偶然なのだろうか。



◆動物と子どもたちの親和性◆

 かつてキリスト教は一神教であるが故、未開の地のアニミズム(自然崇拝/動物崇拝)を野蛮な宗教として徹底的に排斥してきたことは前章()でも述べた通りだ。旧約聖書の有名な一節を引いてみよう。

神は言われた。我々にかたどり、我々に似せて人をつくろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。
出典:旧約聖書 創世記 1章 26節(iばいぶる

 ここにハッキリと示されている。彼らにとって動物は人間より下位の存在であり、崇拝の対象どころか支配の対象なのである。彼らが盛んに動物愛護や肉食反対をさけぶのはそんな人間中心主義の裏返しなのかもしれない。

 改めてマリオ陣営の顔ぶれを確認していこう。マリオ、ルイージ、ヨッシー、ピーチ、キノピオ、デイジー、ロゼッタ、、、一部の気のいい怪獣を除いて見事に全員人間(人間型)ではないか。もちろん、そこには人間と人間の戦いでは「生々しすぎる」というつくり手による倫理的な配慮もあったであろう。人間と動物の戦いにしてしまえば寓話的/牧歌的なニュアンスを強調できるからだ。たとえば登場キャラクタに動物たちを配する物語は『アンパンマン』など幼児向けコンテンツに広く見られる世界観である。ウサギやカバが人語を話し、服を着て、人間のようにふるまうのだ。アダムとイヴが禁断の果実を頬張った際、まずはじめに思ったのが「裸では恥ずかしい」という感情だったことが想起される。

 そんな動物キャラクターがいるだけで子どもたちはすんなりとその物語に入っていけるものだ。よく考えたらそれは不思議なことである。動物と子どもたちの親和性はどこから来るのだろうか、、、



 少年漫画に目を向けると『ドラゴンボール』がその代表格として挙げられる。ウーロン、プーアル、亀仙人と暮らすウミガメなどをはじめ、ドラゴンボールの世界にはごく普通の一般人にまじって動物型一般人もよく描かれていたのだ。しかし彼らの存在は、西遊記をリスペクトしたファンタジー路線から、宇宙を巻き込んだバトル路線へ作風が変化していくなかで徐々にフェイドアウトしていった。それをもってしばしば「ドラゴンボール」は動物型一般人たちを表舞台から消し去ることによって幼児性と決別した、と解釈されることもある。だったらなおさらのこと、その根源に沈められているであろう「動物と子どもたちとの親和性」の正体を何としてでも突き止めなければなるまい。



◆ヌイグルミが握る鍵◆

 もしかしたらその鍵はヌイグルミが握っているのかもしれない。

 我が小学一年生になる愚息はいまだにヌイグルミ遊びに夢中である。リビングに溢れるそれらはクマであったりサルであったり何だかよくわからない毛むくじゃらであったりする。彼はヌイグルミ一体一体に名前をつけ大層かわいがっているのだ。たまに私が枕にして寝転がっていると血相をかけて抜き去っていくほどである(そして私は床に頭を強打する)。なぜ幼子はあれほどまでにヌイグルミに執着するのだろう。

 イタリアの児童文学作家ジャンニ・ロダーリはその著書『ファンタジーの文法』の中で以下のように述べている。

子どもと動物玩具の関係をはっきりさせようと思えば、さらにはるか遠くの昔にさかのぼる必要がある。

 つまりこういうことだ。息子はヌイグルミを傍らに置くことによって人類の歴史を追体験しているのである。太古の昔、人類は動物と同等のくらしをしていた。幼子がヌイグルミに囲まれて生活しているように、人類もまた野生動物に囲まれて生活していたのだ。しかし人類はやがて火の扱いをマスターし、文字を発明することで、高度な文明社会を築き上げていく。我が愚息もやがては火の扱いをマスターしたり読み書きを覚えたりして立派な大人になっていくのだろう(そう願いたい)。

 私はそこに「人類の歴史」と「人間の成長」のフラクタル構造を見たのだ。人類のDNAには動物の一員だったころの「太古の記憶」が刻まれているのである。



◆意外な火の起源◆

 ずいぶんと迂回してしまった。もうピンと来た方もおられるだろう。火の取り扱いをマスターしていると言えば、それこそマリオなのである。ファイヤフラワーを取ることによってマリオは火を獲得する。なんとも象徴的ではないか。動物と同等のくらしをしていた人類が火を獲得することによって動物たちを出し抜いたように、マリオは火を獲得することによって動物を蹴散らしていくのである。「マリオのパワーアップ」と「人類の歴史」。そんなところにもフラクタル構造は顔を出すのだった。

faiamario.jpg
 ※『スーパーマリオブラザーズ』説明書より

 しかし興味深い指摘がある。英国の社会人類学者ジェームズ・フレイザーはその著書『火の起原の神話』の中で「未開の民族ほど火の起源を動物に求める傾向にある」と述べているのだ。たとえばネイティブアメリカンのツィムシャン族の間では火は最初にホタルが持っていたと信じられている。一方、ヌートカ族はオオカミが持っていたという。クワキウトル族 はミンクだという。その他、ハゲタカ、カラス、ミソサザイ、ハチドリといった鳥類や、カエル、ヘビ、イカなど多種多様の動物たちが、世界各地の未開の民族によって火の起源として語られているのである。もしかしたらマリオのファイアボールの起源も案外、クッパの炎なのかもしれない。

 そう考えるとタヌキスーツしかり、ファイアボールしかり、人間vs動物という非アニミズム(=キリスト教)的な構図の中にあって、ときには動物の力を借りて戦うマリオの絶妙なポジショニングがより一層、物語に深みを与えているように見えてくるのだ。何度も言うようだが、それが意図された演出であるかどうかは重要ではない。むしろ製作者が無意識のうちに影響を受けてきた宗教なり思想なりが、物語のディテールとなって表出した“何か”にこそ真実は宿るものなのだから。



orotima-ku1.pngとくにオチはない
と言いつつ一応オチてるかな




【スーパーマリオをめぐる雑考】 全4回
1.タヌキスーツの異質性
2.なぜマリオの敵は動物なのか
3.マリオ世界の「死」について
4.テレサは何のお化けなのか

このエントリーをはてなブックマークに追加  
【←Prev】 【↑PageTop】 【Next→】
はじめに
twi8bit1.giftwi8bit1.gif

このブログについて
管理人:オロチ


情報提供窓口


月別アーカイブ
過去の記事
(ランダム表示)
お知らせ
オロチの小説
カクヨムにて公開中!
スポンサー
お売りください。駿河屋です。