<レトロゲームはクラシックカーに似ている> 「レトロゲームを楽しむことは、クラシックカーを楽しむことに似ている」と誰かが言った。
写真素材:足成 僕はこの言葉にすごい納得してしまった。もちろん、違うところもたくさんあるけど、似てるところもたくさんあるのだ。そんなわけで、今回はそんな切り口から、今、話題のレトロゲーム海外流出問題について考えてみました。
<どこまでがレトロゲームなのか!?> 史上初のテレビゲーム機といえるものは1972年、アメリカで誕生したという。それからは様々なメーカーが様々な機種を世に送り出し、現在まで続くその歴史はおよそ40年。その中でも生産がとっくに終了した機種を指して「レトロゲーム」と呼ばれている。
じゃあ、どこからがレトロゲームなのか。これは
正直ハッキリしないのだ。なぜならテレビゲーム機は今でも現行機が生産されているし、現行機でなくなると即レトロゲームになるわけでもないからだ。
一方、クラシックカーの世界では、当然、今でも車は生産されており、どこからがクラシックカーでどこからがそうでないのかハッキリ言えないのは同じなのだが、「たぶんここからここまでなんじゃね」といった区分が、いわゆる愛好者の中でだいたい決まっているようである。
また、クラシックカーには国際的な愛好者団体が存在し、そこが、ある程度の明確な区分を製造年代で決めているという話である。
いずれにしてもクラシックカーには、それを定義する
なんらかの区分が存在し、現行車とは別物とされ、たしなまれているんだなってことがわかるのだ。
<レトロゲームをレトロゲームたらしめているもの> 「レトロゲームよりも最近のゲームのほうが面白いじゃん」
よく、そんなことを言うひとがいる。レトロゲームはあくまでも発展途上のゲームだというひともいる。しかしクラシックカーがそうであるように、そろそろゲームにも、なんらかの区分ができてもいいんじゃないかと僕は思っているのだ。
実は、レトロゲームの世界にも“日本レトロゲーム協会”という団体が存在するのだが、それほど認知されてないのが現状だ。しかしながら、たとえ明確な年代区分があったとしても、レトロゲーマーが、なぜレトロゲームを好きなのかというと「年代が好きだから」と答える人はあまりいないだろう。
古くからのひとたちには思い出があったり、若いひとたちには目新しさがあったりするかもしれないが、本質的な部分で言うと、レトロゲーマーがレトロゲームを愛している理由は、やはり、その独特なデザインや、雰囲気や、内容そのものが
魂をゆさぶるからに他ならない。
クラシックカーにはクラシックカーの楽しさがあるように、レトロゲームにはレトロゲームの楽しさがあるのだ。したがってレトロゲーマーに「最近のゲームのほうが面白いじゃん」と言うのは、クラシックカー愛好者に「今の車のほうがよっぽど走るじゃん」と言っているようなものなのだ。(愚問とはこのことである)
<レトロゲーマーのジレンマ> ただ、レトロゲームとクラシックカーを比較した場合、多くの異なる点があるのも事実だ。
実際にデータを見たわけではないのだが、たとえば、いわゆる愛好者の数だったり、携わっている人間の数だったり、取引の数や規模だったり、どれを取ってみてもクラシックカーのほうが上をいっているのは明らかで、そもそも車とゲームの市場規模や、歴史の長さがまったく違うのは言うまでもない。
当然、クラシックカーには世界中に愛好者がいるので、その市場も世界規模なのだ。
そう考えると、最近、にわかにクローズアップされているレトロゲームの海外流出問題も、それは
レトロゲーム市場が世界規模になりつつあることを意味していると言えなくもない。
レトロゲーマーにとって日本のレトロゲームが世界的に評価されることは嬉しいことだ。しかし、それによって世界規模のレトロゲーム争奪戦に巻き込まれてしまうのは避けたい現実。そこにはレトロゲーマーのジレンマがあるのだった。
<浮世絵の教訓> 思えば、かつてバブルの時代、日本人が海外でブランド品を買いあさり、ついでに、ひんしゅくを買ってきたということがあった。近年では中国人が日本に押し寄せ、化粧品や電化製品を買いまくっているという。しかし、今回のレトロゲーム流出問題をそれと同じ目線で語るのは非常に危ういことだ。
なぜなら、レトロゲームはその性質上、新しくつくられることがないからである。そういった意味ではアンティーク品や骨董品のカテゴリーに分類されるべきものなのだが、正直それにしては何もかも中途半端という現状もある。今、まさにそうなろうとしているのかもしれない。まあ、仮にそうだとしたら、文化財的な側面が強くなってくるはずである。
文化財とは、言い換えれば
“人類の宝”だ。
その昔、日本で大量生産されていた浮世絵は、それこそ今で言うチリ紙みたいな扱いを受けており、輸出品をつつむ梱包材として海外に渡った際「むしろこっちのほうが面白い」と外国人たちの間で大人気となったという逸話がある。ウソかホントかは知らないが、その時代に、当時の貴重な浮世絵の多くが海外へ流出してしまったのは事実なのだ。
レトロゲームだって、しょせん大量生産品であり、骨董品としての価値は皆無で、ましてや文化財でも何でもない。当時の日本人が浮世絵に対してそのようなことを思っていたように、きっと、現代の日本人の多くがレトロゲームに対して、そう思っているのだろう。
日本のレトロゲームが世界的に評価を受けると、日本からレトロゲームが消えるのではないかと思ってしまうこと自体が、それを物語っているような気がしてならない。
なんてこと言ってると、どこからともなく、市場原理主義、グローバル化、なんて言葉が聞こえてくる。「買いたいやつが買えばいい」「売れて困るなら売るな」という意見はもっともだ。しかしながら我々は本当にそれでいいのだろうか。そんなことに、いちいちセンチメンタルになってはいけないのだろうか……
<レトロゲーム流出問題で本当に困るのは誰か!?> 最後に、今回の問題で本当に困るのは誰なのか考えてみたい。
商売をしている以上、売れて困るなんてことはないはずで、日本からレトロゲームがなくなるのなら違う商売をやればいいだけの話だし、レトロゲームがやりたければ、今ならバーチャルコンソールとか手段はいくらでもあるし、国内のコレクターの多くはすでに欲しいものを手に入れているだろうし、実は誰も困らないんじゃないかという指摘もある。
しかし、そんなこと言ったらクラシックカーだって、浮世絵だって、日本から消えてなくなっても大多数の人間は困らないじゃないか。
元も子もない話とはこのことだ。
じゃあ国宝なら困るのか。重要文化財なら困るのか。それとも東京スカイツリーなら困ってくれるのか。富士山ならさすがに困るんじゃないのって、どんどん考えていくと、やがてバカらしくなってくる。なぜなら、ここでいう「困る」とは、生活に支障をきたすとか、身体に異常をきたすとか、そういう「困る」ではないことに途中で気づくからである。
それでもレトロゲームなんか無くならないし、無くなってもぜんぜん困らないというひとは、いったい何なら困るのか、この機会に考えてみてほしい。それはそれで、前に進んでいるような気がします……
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