去年の12月。うちの息子がクリスマスツリーに何やら手紙を括り付けていた。
そこには、ところどころ字が反転しつつも
「すーぱーまりおめーかーとぶひんぜんぶください」と書かれていた。聖夜の七夕化甚だしいなと思いつつ、なんとも心配性の息子らしいと少しばかり和んだ。きっと保育園の友達から「ソフトだけじゃ遊べない」みたいなことを聞かされたのだろう。
それから「サンタさん、ちゃんと部品くれるかな」憂う息子に「大丈夫だと思うよ」白々しく応える日々が続いた。

そして迎えたクリスマス。お願いの甲斐あってか、息子の枕元には「WiiU本体マリオメーカー同梱セット」が置かれていた。本体もコントローラ(ゲームパッド)も全部付いてるぞ。よかったね息子。(ただしサンタさんは清水の舞台から飛び降りたきり這い上がってこれない状態である)
でも今思うと、それは本当に部品のことだったのかもしれない。
『マリオメーカー』はある程度の日数をプレイしないと部品(ブロックや敵キャラなどのパーツ)がそろわないようなシステムになっていたのだ。息子の憂事はこれだったのか。私は想像を越えた現代のゲームシステムを目の当たりにして軽く身震いした。無理もない話だ。それまで我が家にはファミコンしか無かったのだから。
それは驚きというよりも焦りに似た感情だ。ファミコンばかりやっている自分は世の中から取り残されているのではないだろうか。せめて一般常識レベル程度には、ついていかねばという焦燥感だった。しかしこれが、思ったよりも配線や設定に戸惑うことはなかったのだ。おそらくWiiUがパソコンに近いと感じたからなのだろう。
Wiiのときに既に言われていたことだが、これが
“任天堂が本当の意味で「ファミリーコンピュータ」をつくった”ということだったのか。今さら私がWiiUの設計コンセプトがどうの、UIデザインがこうのなんて語るまでもなく、そこにあったのは、間違いなく
“家族のコンピュータ”だったのである。
長い間ファミコンと共に生きてきた。そんな私がWiiUで本当の意味での“ファミコン”を実感できたことは非常に意義深かった。清水の舞台から飛び降りたサンタさんも無駄死にではなかったわけだ。(死んでない)
以下蛇足である。
サンタさんといえばこれは妻から聞いた話なのだが、知り合いの子どもが通う小学校1年生の担任が、こともあろうか得意げに、
サンタさんの正体を子どもたちにばらしてしまった(しかもクリスマス前に)という。子どもたちが親にそのことを話して発覚したのだとか。
その大先生がいったいどういう信念のもと、そんな苦渋の決断を下したのか知る由もないが、親たちは怒りを通り越して唖然としてしまったのだとか。そりゃあそうだ。こんなとき何て言えばいいのだ。サンタバレなど自然の摂理に任せておけばいい。
だが私はあえて「許してやれ」と言った。おそらくその大先生は去年までずっとサンタさんにプレゼントをもらっていたのだろう。でもこの度その正体が親だったことを知ってしまい、ショックを受けた彼はそれを皆に話てしまったのではあるまいか。いづれにしても子どものしたことだ。許してやれと……
ただしいくら人材不足だからといって、子どもを雇っているような学校を許す必要はない。
そもそも学校というのは子どもを立派な社会人へ育たるための機関であるはずだが、肝心の教師が
社会経験のない人間ばかり(学校を卒業して学校に就職してるという意味で)というところで端から破綻しているのだ。そういう意味で“子ども”なのである。
そんなモラトリアムな人間がいったい社会の何を教えてくれるというのか。私は学生時代から既にそう思っていたので、きっと態度にも顕れていたのだろう。いつも教師から目の敵にされていた。
気を悪くされた方がいたなら、どうか許してほしい。たぶん私は
良い先生渇望症なのだ。尊敬したいがために蔑んでしまう。本当は誰よりも理想の先生像に憧れているのだ。来年には上の息子が1年生になる。せめて息子には、心から尊敬できる良い先生に巡り合って欲しいと願っている。
話がずいぶん逸れてしまった。次回から本格的に『マリオメーカー』の話をしたいと思う。しかし最近、どうも文章が説教臭くていけない。いつまでもファミコン少年のつもりが、ファミコン親父になってしまったんだなあ……
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