◆ファミコンが勝手に集まってくる家◆ 僕がファミコンを集め始めたのは大学生のときでした。ときは次世代ゲーム機の嵐が吹きすさぶ1994年。僕の家は、地元の友だちのたまり場になってたんです。正確に言うとそこは自宅ではなく、親の会社の事務所(一軒家)でした。僕たちはその家の2階で毎日、パーティジョイをしたり、ミニ四駆やったり、キン消し相撲したりして遊んでいました。(小学生か!)
なんでそうなったかは知らないけど
「昔ハマっていたものを持ち込む」っていうノリが、その僕の家の敷居をまたぐ条件みたいになっていたのです。
ファミコンはその中のひとつに過ぎませんでした。
ビックリマンシールを持ち込むやつ、ブタミントンを持ち込むやつ、ルービックマジックを持ち込むやつ、いろいろいたけど、でも、やっぱり僕たちが落ち着いたのはファミコンだったんです。僕たちはファミコンが発売された年に小学生になった世代なので、5・6年生くらいになるとクラスの9割がファミコンを持ってる状態でした。そして、大学生や社会人になる頃には当然、誰もやっていなかった。つまり、たいていのやつの家の押し入れにはファミコンが眠っていたのです。
したがって卒業アルバムを引っ張り出してきて、同学年の男子に片っ端から電話をかけ「ファミコン持ってきて」と頼めば、すぐに100本以上、集まったのでした。
そんなある日、僕はファミコンソフトのかたまりを前にして、感慨深いものがあったんでしょうね。ふと、頭をよぎったのは
「ファミコンって全部で何種類あるんだろう」っていう素朴な疑問だったのです……
それがすべてのはじまりでした。
◆物理的手段しかなかった◆ 「ファミコンって全部で何種類あるんだろう」っていう疑問が、なぜ「集める」という行動につながるのか、もしかしたら、わからないひともいるかもしれません。だって
そんなの今はネット検索すれば一発じゃないですか。
でも当時はインターネットもなければ、まとめ本みたいなものもありませんでした。
※1 したがってファミコンの総数を知るには、ものすごい原始的な方法しかなかったのです。すなわち「実際に集める」という物理的手段!(当時、捨て値だったし)
そういう意味でいうと、僕のモチベーションはただただ知りたいという気持ちのみでした。
※1 正確に言うとインターネットはあったがまったく普及してませんでした。また、まとめ本に関しても趣旨は違うものの「大技林(徳間書店)」があったが、僕がそれに出会うのは集めだして数年後でした。(詳細はこちら)
※オロチファミコン部屋の一角 ディスク棚とガラスケースの一部 車を運転中「この道はどこまで続くんだろう」って思ったことありませんか。それと同じなんです。ただただ知りたかった。
しかし、田舎なので情報も入って来ないし、同じ趣味の仲間もいませんでした。そんな僕がフル活用したのが「フリマ雑誌」です。今ではもう存在しないんですが、あげます・ください系の掲示板の雑誌バージョンといえばわかりやすいかな。僕はそこに「ファミコンソフト譲って下さい」という投稿を出しました。すると驚くほど反響が大きかったんですよ。
しかもほとんどのひとが「要らないからあげる」って感じのいいひとで、僕のコレクションの5分の1くらいはこのフリマ雑誌を通じて、ただ同然で手に入れたものと言っても過言ではありません。
◆東海地方ファミコン探しの旅◆ 僕は東海地方のゲーム屋・オモチャ屋その他、ファミコンソフトが売ってそうなところを巡りまくりました。当時、僕は山奥の大学に通っていました。田舎は車が必須アイテムなので、親のおさがりの車で通学していました。そういった意味では非常に恵まれていたと思います。
とくに、そのころ僕は運転免許取り立てでしたから、とにかく車に乗りたいんです。
23号線をひたすら進んで伊勢神宮まで行ったこともあります。そのとき松坂のオモチャ屋では新品のディスクシステムをゲットしました。左手に海を見ながらどこまで行けるかチャレンジでは、結局、岡山まで行きましたね。そのときは収穫0でしたが、途中でボンネットから白煙があがったときはどうなるかと思いました。
僕の場合「この道はどこまで続くんだろう」ってのは比喩でもなんでもなく、実践してたんです(笑)
忘れもしないのは
「ファミコン」という看板をかかげてるのにも関わらずファミコンを置いてない店が多かったこと。多かったこと。
当時はサターン、プレステの時代でしたが、ファミコンはゲームの代名詞だったので、店側も看板を下ろす必要性を感じなかったんでしょうね。まさかこの看板を見て本当にファミコン買いにくるやつなんていないと思ってたんでしょう。
でもこっちは「ファミコン」って書いてあったらファミコン売ってると思うわけです。で、お店に入ってファミコンが置いてなかったときのガッカリ感ときたら、相当なものがありましたよ。ふつうにウソですもん。
しかし、かといって店員さんに文句を言っても仕方ありませんでした。当時、ファミコン集めてるやつのほうが異常だったんです。
赤ちゃんデパート水谷に赤ちゃんが売ってないのと同じですよ(ローカルネタですいません(笑)。そんなことはわかっていたので、僕はとぼとぼと黙ってその店をあとにするのでした。
◆何もかも手探り状態、でもそれが楽しかった◆ ひとまず僕は、ナムコやアイレム、タイトーといった、カセットや箱に番号がふってあるソフトを中心に集めました。総数がわからない以上、そういう番号を手掛かりにするしかなかったわけです。
ジャレコやアスキーの場合は型番をヒントにしたりね。たとえば番号が抜けてるやつがあって、どうしても見つからなくて、後日それがゲームボーイのソフトだったことがわかったりと、日々、いろんな発見をしてましたね。
※オロチ所有の3Dシステム。ちなみに右のツインファミコン専用バージョンはかなりの珍品。 岐阜県のオモチャ屋で謎のメガネを発見したときは興奮しました。つれと温泉に行こうと出かけたのに、たまたま見つけたオモチャ屋に入ったらこれを見つけてしまって、まあ、ただの「3Dシステム」だったわけですが、当時の僕は存在を知らなかったので本当に宝物でも見つけた気分でしたよ。
結局、お金が無くなっちゃったので、温泉には行きませんでしたからね(笑)
僕はソフトもさることながら、コントローラや周辺機器も大好きでした。未知のコントローラや周辺機器を発見したときなんかは、本当に天にも昇る気分でしたよ。
※オロチが管理するファミコンのコントローラを網羅したサイト「コントローラ地獄」 忘れられないのが静岡県磐田市にあった昔ながらの玩具屋さん。そこにはデットストックの「カラオケスタジオ」とか、「ハイパーショット」とか置いてあって、見つけたとき大興奮だったのにお金がなくて、銀行を探したけど閉まってて、泣く泣く帰ったこと。後日、またその店まで根性で向かいましたよ。合計600キロの車旅。頭おかしいだろ(笑)
なんだか知らないけど
車と、情熱と、ヒマだけはあったのです。そんな僕を突き動かしていた原動力は、一点の曇りもない純粋な知的好奇心のみ!
僕はファミコン集めが楽しくて楽しくて仕方ありませんでした。
なぜなら毎日が大発見だったからです。
◆秋葉原ショックからのHP開設◆ しかし90年代後半からインターネットの普及により、僕をとりまく環境は激変しました。
ときはファミコン再評価時代。僕が「ファミコンソフトにプレミアがついてる」ということ知ったのもこの頃でした。上京して初めて秋葉原に行ったとき、ファミコンカセットがガラスケースの中に飾ってあり、
見たこともない値段がついていたときの衝撃は今でも忘れられません。僕はそのとき、ひざから崩れ落ちたのです。
なぜならそのほとんどを持ってなかったのだから!(笑)
※1999年頃のオロチのホームページ「たった一人のファミコン少年」の様子(Webアーカイブ)。ちなみにカウンターはリセットされている模様。 レア物はやっぱりレア物だったんですよ。もう意味がわからなさ過ぎて逆にオラ、わくわくしてきたぞ状態。そんな訳の分からん勢いで僕がホームページを開設したのが1997年のことです。僕はそこで今まで集めてきたファミコンコレクションを公開し始めたのでした。
しかしインターネットの海には、僕なんか足元にも及ばないような猛者たちがウジャウジャいたわけですが、続きはまた次回のお話。
(つづく)
<なぜ僕はファミコンを集めるのかシリーズ>
・(1) レトロゲームは安い趣味だった!
・(2) 車と情熱とヒマだけはあった!
・(3) 夢の存在、憧れの存在!
・(4) 皆の期待に応えたかった!
・(5) スーファミ買ってくれないから!
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