<運動会の異様な光景> 子どもの運動会でビデオ撮ってる親っているじゃないですか。いや、むしろほとんどの親がビデオ撮ってるんだけどね。子どもたちを狙った無機質なレンズの集団、僕はあの異様な光景が苦手なんですよ。

僕も二児の父親ですから、気持ちはわからんでもない。でも、どうせ撮るなら「ちゃんと撮らなきゃ」ってなるじゃない。
そうなると、どうしても撮影に気を取られちゃって、子どもを全力で応援し、運動会を楽しむことっていう、
本来の目的が疎かになっちゃうんだよね。それって本末転倒ですよね。両立できるほど僕は器用じゃないんです。
「何で撮らないの。思い出になるじゃん」
たいていのひとはそんなことを言うんです。この魔法の言葉。思い出になるから。
僕はこの言葉が大嫌いですね。思い出になるから(笑)
<蔓延する“思い出”という現代病> 何をするにも思い出前提のひとっていますよね。たとえば旅行で多いんだけどさ、思い出になるからあそこ行こう。思い出になるからあれしようって、行動原理が思い出になっちゃってる子。
いやいや、思い出ってたまたま付いてくるぐらいがちょうどいいのであって、前提にするなんて野暮でしょって思うんだけど、そもそもあの子らにとっては
「旅行=思い出づくり」だからね。永久に分かり合える気がしないんです(笑)
しかも、そういう子に限って写真を1枚撮ったら「はい、次行こう」みたいなね。
待て待て!(笑)
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まるで“思い出”という病ですよ。しかも現代病ですよね。この手の子らは写真・ビデオを撮ることで、思い出をつくった気分になっちゃってる。いやいや、まずはその場所なり物なりを楽しまないとって思うんだけど、手段と目的が逆転しちゃってるんですよね。思い出づくりしか頭にないくせにさ、すこぶる
思い出づくりが下手クソなんだよなあ。
思い出づくりが下手ってことは言い換えると
「物事を楽しむ努力が下手」ってことですよ。
<物事を楽しむための努力> 先日、小学生5、6年生の子らとキャンプ場へ行く機会があって、到着して荷物を降ろしたり作業してる間、子どもたちに「ちょっとそこらで遊んでおいで」って言ったんです。そしたら一人が周りを見渡してこう言うわけ。「遊具も何もないじゃん」って……
僕はこのとき「現代っ子だなあ」と微笑ましく思ったと同時に、
「キャンプ場ってレトロゲームだよな」って思ったんです。
※ゲームボーイカラー専用ソフト『ぼくのキャンプ場』 現代って娯楽が溢れかえってますよね。明らかな供給過多ですよ。すると娯楽の中でも競争が起きて
よりユーザーに優しいコンテンツが勝ち残るって構図が、往々にして見られるんです。
ゲームの世界でも似たような流れがあって、最近のゲームにはコンティニュ、セーブ・ロード機能は付いてて当たり前、練習モード、チュートリアル、ヘルプなど、プレイヤーに優しい機能がこれでもかと付いてるんですよ。
そう考えると遊園地が現代のゲームなら、キャンプ場はレトロゲームだなって思ったわけだ。もちろんキャンプ場にはキャンプ場の良さがあるし、大人が少し導いてあげれば、子どもはいくらでも遊びます。そんなところもレトロゲームに似てるなあって。
要するに、娯楽が進化してくれたおかげで、現代人は
物事を楽しむために大した努力をしなくても済むようになったのです。
<スマホゲームの功罪> でも、そうなってくると、現代のゲームに比べたら恐ろしく不親切なゲームデザインのものが多いレトロゲームなんか悲惨ですよね。
たとえば今や主流といっても過言じゃないスマホゲームの場合、基本無料が当たり前になってるもんだから、つまらなかったら
「はいっ、クソゲー」からの「即削除」って流れができちゃってる。
※ファミコン版『ミシシッピー殺人事件』 ファミコン時代はさ、お小遣い貯めて買ったゲームが『ミシシッピー殺人事件』だったとしても必死こいてプレイしたよ。周りの友達が『ドラクエ』で楽しんでるときも、逆に
「お前らはまだドラクエやってんのか」ぐらいの気概でさ。楽しむのも必死よ。
それがなんだ。昨今はニュースサイトで「ファミコンクソゲー特集」とかいう記事も多いけどさ、「ミシシッピー、はいっ、クソゲー!」、「舛添要一、はいっ、クソゲー!」ってなもんですよ。内容が軽い軽い。ファンキーモンキーベイビーズの歌詞くらい軽いよ。下手したらプレイすらしてないだろ。
当時の小学生たちがどんな思いで『ミシシッピー殺人事件』やってたと思ってんだよ。新しいゲームソフト買って、わくわくしながら家帰ってファミコン付けて、いざプレイしたら訳もわからず、ナイフが飛んできて即死したときの気持ちわかるのかって。親にまで不憫に思われて「あんた、これ返品してきなさいよ」って言われても、なおプレイし続けた小学生の気持ちわかるのかって問いたいよ。懐かしいなあ(笑)
もちろん、そんな修行僧みたいなやつばっかじゃなかったけどさ、今みたいに無料じゃなかったから、必死で楽しまざるを得なかったという時代だったんだよね……
<レトロクソゲーのタブー化> さて、そんなレトロクソゲーを取り巻く環境の変化は、レトロゲーマーの間で「クソゲー」という言葉のイメージが悪くなっていくという逆転現象も引き起こします。猫も杓子もクソゲー、クソゲー連呼するもんだから、嫌気がさしてるんでしょう。
もはや
レトロゲームをクソゲー呼ばわりすること自体がタブー化しつつあると言っても過言じゃありません。
いやいや、クソゲーってもともと悪い言葉じゃんって言われたら確かにそうなんですが、愛を込めて使ってたやつもいたんですよ。

たとえば「
オロチのクソゲーな日々」は僕が今から20年くらい前につくったサイトなんですが、少なくとも僕は、愛を込めて「クソゲー」って言ってましたね。
ところが現代は、そもそも
「クソゲーを愛でる」ってスタンス自体が理解されなくなってきてる。つまらないゲームをなぜ必死で楽しまなきゃいけないのかって、当然の疑問だよね。愛でるよりも、
適当にバカにするほうが簡単だし面白いじゃんって。そんなスタンスの記事や動画がスタンダードになっちゃってる。
「クソゲーな日々」も歴史だけは古いもんだから、そんな流れの元凶の1つみたいに思われたら嫌だなあなんてビクビクしてるわけです(笑)
現に今でも、ご指摘やお叱りのメールを頂くこともあり、更新を怠っているからなあと、そこは素直に反省したい。昔はこうだったと言うのは簡単ですが、我々は、じゃあ今からどうするんだって話をしなきゃいけないと痛感しました。だから今回、記事を書いたようなもんです。レトロクソゲーが本当にタブー化してしまう前に。
<まとめ> ということで今回のエントリーはまず背景と、自分なりの分析でした。まとめると以下のようになります。
1.多くの現代人は“思い出という現代病”にかかっている
2.そのわりには思い出づくりが下手クソなひとたちが多い
3.原因は「物事を楽しむための努力」が不要になっているため
4.その背景には「娯楽コンテンツの至れり尽くせり化」がある
5.ゲーム界では基本無料のスマホアプリがその傾向に拍車をかけている
6.おかげで「クソゲーを愛でる」というスタンスは理解されなくなってきた
7.反動でレトロクソゲーのタブー化が起こっている
それでは次回をお楽しみに!
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