広東歩歩高電子工業(BBK)は、いまやスマホ業界の全世界シェア5位以内にランクインしているOPPOやvivoなどといったメーカーを生み出した大企業である。その創始者・段永平氏は中国では知らないひとがいないほどの
立志伝中の人物だ。
しかし、その知名度は日本では皆無と言っていい。今回はそんな彼と
海賊版ファミコンとの意外な関係に迫る物語である。
◆偽造ファミコンをヒットさせた秘策◆ ときは1989年――
北京の真空管工場を辞め、大学院へ入り直していた段氏は、中山市旅遊局が1987年に設立したとある国有企業を訪ねる。のちの小覇王公司だ。そこで段氏は、ずっと赤字続きだという傘下工場の経営を任されることになった。
すると彼はすぐにその手腕を発揮。当時、製造していた海賊版ファミコンに
とある秘策を施して販売したところた大ヒット。3年後には10億人民元(当時のレートで約300億円)を売り上げる大工場へ育て上げたのだ。
その名も「小霸王学習機」である。
画像:Baidu百科 海賊版ファミコンの製造というのは、要するに任天堂に
無許可で勝手につくったファミコン互換機を販売する行為だった。
一説に、この小覇王シリーズは中国全土で2000万台以上普及したという。驚くべきことに、この数字は本家日本での
ファミコンの出荷台数を上回っているというから、任天堂の逸失利益を考えると頭痛が痛い話だ(笑)
しかし、そのあたりのきな臭い話は別の機会に譲るとして(
※1)、今回はそんな中華思想が叶えたチャイナドリーム物語。
はたして、段氏の施した秘策とは何だったのだろうか!?
※1 ゲーム業界と海賊版の関係については一筋縄ではいかないので、ここではあえて多くは語らない◆大成功へ導いた3つのポイント◆ その答えは、この機種の名前を見ればわかるだろう。彼は海賊版ファミコンをゲーム機ではなく
学習教材として売ったのだ。ゲームはたまたま出来てしまうが、あくまでもこれは教育機器ですよというスタンスである。
その証拠に「小霸王学習機」にはキーボードが装備されており、オリジナルの学習ソフトもいくつかリリースされていた。
さらに分析すると、その成功の影には以下の3つのポイントがあったと考えられる。
・ファミコンが正規販売されていなかった
・人口が日本のおよそ10倍だった
・どの家庭も親が教育熱心だった
まずは、そもそも中国でファミコンは正式販売されていないとい点が挙げられる。したがってごく初期では都市部の子どもたちを中心に個人輸入販売されたファミコンが普及したようだ。しかし瞬く間に供給不足なるのは火を見るよりも明らか。なぜなら人間が日本のおよそ10倍もいたからだ。
したがって、もともと知的財産権保護の意識が低いお国柄もあって、瞬く間に海賊版ファミコンが製造されることになる。中国全土へ普及したファミコンの
ほとんどは不正に製造された海賊版だったと言っても過言ではないだろう。
※2 ※2 小覇王シリーズの普及台数については前述のとおりだが、それを含む海賊版ファミコン全体の中国への普及台数は一説によると7000万台を超えると言われている。これは全世界のファミコン(NESを含む)普及台数をも上回る数字なのだ。もはや、なんも言えねえ(笑) また、一人っ子政策の影響で(主に都市部の)家庭のほとんどが一人っ子であり、したがって、たいていの親は教育熱心だったことが挙げられる。当時、彼らの関心はパソコン(ホビーパソコン)へ向いていた。しかし本物は高価すぎて、とてもじゃないが子どもへ買い与えられるような代物ではなかった。そこへ都合良く現れたのが「小霸王学習機」だったというわけである。
さらに、あえてポイントを、もう1つ挙げるとしたらこれだ。
・大物映画スターを起用したプロモーション
1994年、勢いに乗った段氏率いる小霸王は、学習機の第二世代を発表。プロモーションに大物映画スターを起用し、大々的なキャンペーンを展開。TVCMなどをバンバン流したという。誰のことだか、わかるだろうか?
◆世界のジャッキー「海賊版ファミコン」を売る◆ その大物映画スターの正体は……
日本でもおなじみジャッキーチェーンだ。
香港で頭角を現し、紆余曲折あってハリウッドで大成功。米国オバマ大統領在籍当時には、晩餐会に呼ばれるなど、国際的にも
要人クラスの活躍をみせているジャッキーであるが、まさかランニングシャツ一丁で、海賊版ファミコンの広告塔をしてていたなんて正直、ビックリである……
画像:http://www.bilibili.com そして当時、中国で放映されていたTVCMがこちら。
過去には香港マフィアから命を狙われるなど、数々の壮絶な修羅場をくくってきた彼にとって、海賊版ファミコンを宣伝していたことなど、屁と思ってないだろうが……
◆その後、そして現在――◆ 話を段永平氏に戻そう。
彼は小覇王学習機をヒットさせたあと、会社の経営方針をめぐって幹部らと対立してしまう。そして1995年7月、彼は周りの反対を押し切り、数名の部下を引き連れ会社を辞め、同年9月にBBKを設立してしまった。
ただ、そこは持って生まれた商売の星。同社は協定により1年間は小覇王と同じ業界へ進出することができなかったため、まったく別の分野であるコードレス電話を開発。わずか2年間で中国のトップシェアとなった。
そして、10数年後にはスマホ業界で大躍進を遂げることとなるのは前述の通りである。こうして、段氏は
小さな工場を世界的な大企業へと成長させた英雄として、生きる伝説となったのだ……
公式サイト:http://www.zssubor.net/ ちなみに段氏と別れた小覇王は着々とブランドを確立。「小覇王学習機」の売り上げこそ1999年をピークに下降するが(というかずっと売れすぎ)、すぐさまwiiのまがい物をつくったり、ビデオCD部門が倒産したりしながら、2017年現在(執筆時)も健在である。
今度は
VR市場へ殴り込みするそうだ。たくましいなあ(笑)
<参照サイト>
・段永平(baike.com)
・小霸王学?机(Baidu百科)
・其?无?的?代?了!小霸王?衰25年??配角(Gamersky)
・小霸王??全国VR高端主机芯片市? ?占???口 (鳳凰財経)
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