◆日本版とNES版『2』はまったく別のゲーム◆ 1986年6月3日――
ファミコンブーム真っ只中。『スーパーマリオブラザーズ』の初の続編がディスクシステムの目玉ソフトとしてリリースされた。その名も『スーパーマリオブラザーズ2』である。
それは続編とはいうものの、グラフィックやサウンドはほぼ『1』のまま。難易度を高くしただけのような代物であったが、発売されるやいなや250万枚を売り上げ、ディスクとしては最大級のヒット作品となった……

しかし数年後……
北米でリリースされたNES版『2』は
まったく別物だった。

マリオは敵を踏み殺す代わりに、野菜を投げつけるようになっていたのだ。いったい彼に、どんな心境の変化があったのだろうか。
今回はそんなスーパーマリオの2つの『2』をめぐる物語である。
◆とあるメーカーが持ち込んだ試作版◆ ときは1987年春――
任天堂に入社したばかりの新人社員が、マリオの生みの親・宮本茂
(以下敬称略)といっしょに、とある試作ゲームをプレイしていた。それは任天堂の初期作品の多くを開発していたSRDというメーカーが持ち込んだ
縦スクロールするアクションゲームの試作版だった。
ブロックを積み上げてゴールを目指す対戦ゲームで、相手を持ち上げ投げ落とすこともできたという。しかし彼は何度も首を傾げた。イマイチだったのだ。ブロックを持ち上げるというアクションは新鮮だったが、当時のハード性能ではこの動きを十分に活かすことができそうもない。
それに、対戦プレイよりも
一人プレイのほうが致命的につまらなかったのだ。
「改良の余地はある」
そう言って宮本は静かにコントローラを置いた。
宮本はSRDの提案してきた縦スクロールを廃し、横スクロールを導入。いっそのこと
マリオの続編になることも見据えてアイデアを練り、ブロックを持ち上げる動作を、野菜を引っこ抜く動作にすることを思いついた。
フジサンケイグループから手紙が届いたのは、ちょうどその頃だった。
今度「夢工場'87」っていうイベントを開催するので、そのマスコットキャラクターでゲームをつくってくれませんか?
かくして1987年7月――
『夢工場ドキドキパニック』が誕生した。

同作品は任天堂とフジテレビの、いわゆる
タイアップ作品であった。したがってフジテレビにとってそれは、ただの販促物。内容など二の次、三の次で、とにかく宣伝になれば良かったのだ。しかし、そこは任天堂さん……
うっかり名作をつくってしまったのだった(笑)
◆消えたイマジンファミリー◆ そこで任天堂はこの
作品を海外へ売り出そうと考えた。
『夢工場ドキドキパニック』は発売当時、ディスクシステム全盛期だったため、それなりのセールスを記録したが、それはイマジンファミリー(夢工場のマスコットキャラクター)のおかげではないことくらい、誰の目にも明らかだった。
※こちらはオロチ所有の発売記念テレホンカード そこで任天堂はひとりの人物に白羽の矢を立てる。同作品のディレクターをつとめた田邊賢輔
(以下敬称略)である。彼はかつてSRDが持ち込んだ試作ゲームを宮本と共にプレイした、
あの新入社員だった。
もともと作品へ盛り込まれたアイデアがマリオシリーズの続編を見据えていただけあり、それは『スーパーマリオブラザーズ2』として売り出すことに決まった。
さっそく田邊率いるチームはリメイク作業を開始。マリオシリーズに適したアイテムやキャラクターを追加したり、アニメーションや効果音を向上させたりと修正を加えていった。中でも
「キノコを食べて大きくなる」というマリオの代名詞的パワーアップ能力を実装したことが非常に大きなポイントとなった。
そして1988年10月――
ついに完成したのがNES版『SUPER MARIO BROS. 2』である。
そのポップでカラフルな世界観、軽快でキャッチーな音楽、親しみのあるアートワークは、任天堂の看板であるマリオシリーズに非常にマッチしていた。ごく一部のファンの中には
「なぜ今回のマリオは敵を踏みつけて平らにしないのか」と疑問をもつ者もいたが、同作品は1000万本に迫る売り上げを見せ、商業的にも大成功をおさめた。
◆アメリカのマリオは優しい?◆ かつて宮本は任天堂オンラインマガジンの取材に対し
「マリオUSAが一押し」と語っており(
参照)、その元になったNES版『2』(ないし『夢工場ドキドキパニック』)を非常に気に入っていたことがうかがえるエピソードがある。

かくして、4年間のブランクはあったものの1992年にNES版『2』は日本へ逆輸入されることになった。それが『スーパーマリオUSA』である。
当初、そんな経緯を知らないファミコン少年の中には「敵を踏み殺さない
アメリカ生まれのマリオは優しい」だとか、「アメリカのゲームは生物を殺すことに対して規制が厳しい」だとか、デタラメな解釈を吹聴しているやつがいたものだ(笑)
※おそらくこの漫画の影響も多少はあっただろう しかしここでひとつの疑問が残る……
そもそもなぜ米任天堂(NOA)は日本版『2』をそのままROM化してリリースしなかったのかということだ。
その理由についは当時のNOAスポークスマンだったハワード・フィリップス氏が
「アメリカ人には難しすぎる」と判断したからだと言われている。
たしかに同ソフトはコース設計や、毒キノコ、突風などの追加要素が、スーパーマリオに慣れた日本人の上級者向けとなっていた。したがって、しばしば日本版『2』はマリオシリーズにおける
「Black sheep」などとファンの間で揶揄されていた。
※1 ※1 米スラングで「奇妙なやつ」「厄介者」という意味
しかし長い間、アメリカで「Lost Levels」となっていた日本版『2』もとうとう1993年8月1日にリリースされたSNES用ソフト『Super Mario All-Stars』に収録され、晴れて
全米デビューを果たしたのだった。
現在では、マリオシリーズにおける日本版『2』は
ルイージにキャラクタ付けを行った最初の作品として見直され、ひいてはマリオシリーズ全体における「キャラクタ性の芽生え」の象徴的作品として再評価されている。
◆まとめ◆ 最後に、一連の経緯を図にまとめる。
※日本版『2』からSNES版『Super Mario All-Stars』までの一連図 日本版の『2』にせよ、NES版の『2』にせよ、マリオシリーズの中では異彩を放っている存在だ。そのような作品に対して「Black sheep」だの「黒歴史」だのレッテルを貼り、思考停止するのは簡単だが、私はむしろその
秘められた物語を紐解くことによって、やや大袈裟な言い方をすれば
新たな存在価値を創出できると信じている。
そんなところもレトロゲームの楽しみ方のひとつではないだろうか……
参照記事:
The Secret History of Super Mario Bros. 2 (wired.com)
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