◆レトロゲームのイベント性◆ 先日、SNSで「レトロゲームのレビューに内容以外の情報は要らない」という意見を見かけた。現在プレミアがついているとか、いないとか、そんなもん
純粋なゲームの評価とは無関係というわけだ。たしかに最近、値段だけでレトロゲームを語たるようなコレクターがSNSで「いいね」と同時に「ヘイト」を集めているのが目立っているため、カウンター的に邪道扱いしたくなる気持ちはわからんでもないのだが、、、
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高額なレトロゲームの戦利品ツイートが「いいね」と「ヘイト」を同時に集める深い理由 レトロゲーム評ということならば、あえて私は否定しよう。この令和時代にわざわざレトロゲームをプレイすること自体の
イベント性を置き去りにしたレビューなど、少なくとも私には書けないのだ。なぜならゲームは体験だからである。
かつて高田馬場ゲーセン「ミカド」池田店長がファミ通のインタビュー記事で以下のように語っていたことが想起される。
ゲームセンターのゲームって、
家を出た瞬間から冒険が始まっているんです。
この令和の時代にわざわざレトロゲームをやるということは、押し入れの奥でほこりをかぶってる本体を引っ張り出した瞬間から、あるいはレトロゲーム屋へ足を運んだ瞬間から冒険は始まっているということだ。
市場価格はそのイベント性のひとつだと考える。たとえば10万円するプレミアソフト(配信もしていない)をレビューしたところで、実際にプレイできるのはたまたま持ってたひとか、あるいは10万円をポンと出せる金持ちだけではないか。そのレビューを読んで興味をもったとしても10万円することがわかったら、読者はきっと複雑な気分になるに違いない。残念ながら我々が、お小遣いを握りしめながら通った近所のおもちゃ屋さんはもう存在しないのだから。ただしそのイベント性に言及しておけばそんな事態は防げるだろう。もしかしたら「いつかゲットしたい」と思う新たなコレクターを生むきっかけになるかもしれない。レトロゲーム高騰化が叫ばれる昨今であるが
「プレミアソフトに憧れる気持ち」というのは誰にも踏みにじられるものではないはずだ。
◆客観的なレビューとは?◆ もはや我々は令和に生きている。あの頃の熱狂に戻ることはできない。たとえば
「良いゲームは記憶を消してもう一回やりたくなる」とはよく言ったものだ。いつまでたっても初恋が忘れられないように、我々は常にゲームプレイの初期衝動を追い求める。逆に言えばゲーム体験とはいかなる場合でも一度きりなのだ。したがって何度やっても同じ感想になるゲームなどありえない。誰がやっても同じ感想を抱くゲームなどありえない。つまりレビューとは元来、どうしても主観的にならざるを得ないものなのである。
そういえば昔、とあるゲーム雑誌にレビュー原稿を送ったところ、編集部にこんなことを言われたことがあった。オロチさん、もうちょっと客観的に書いて下さい。客観的……だと……!?

客観的なレビューとは何だろう。小一時間考えたのだ。客観的な事実だけを並べた文章などレビューと言えるのだろうか。いや、それはただの紹介文だ。あえて乱暴な言い方をすれば、客観的な紹介文を求めるならば個人の文章より
ゲームカタログ@Wikiを読んだほうがよっぽどいい。なぜなら客観性とは視点(書き手)が多ければ多いほど洗練されていくからだ。私は筆を止めそんなことを小一時間考えていた、、、
――結局、この問題は私の意向が通ったのか。すべてのレビューを記名記事になることで解決され、僭越ながら私はホッと胸をなでおろしたのだ。その雑誌が水を得た魚のようなレビューであふれることになったのは言うまでもない。
◆もっと歴史を語ろう◆ 改めて問おう。レトロゲーム評で内容以外を語るのは邪道だろうか。私はそうは思わない。むしろ我々はもっと歴史を語るべきである。歴史とは教科書に載ってる退屈な昔話のことではない。連綿と重ねられていく
人間の所業そのものだ。あらゆるものは生まれた瞬間から歴史を重ねていく。この世に存在している以上、レトロゲームとて例外ではないだろう。

レトロゲームの歴史は2種類ある。ひとつはゲーム内で経過した時間、プレイヤーが積み重ねていったプレイ記録としての歴史である(≒内容)。もうひとつはゲームそのものに流れる時間、それがいつ、どのように製造され、どのように流通し、どのように評価され、現代に至るのか、ゲームそのもののが積み重ねてきた歴史である。そこには個人の思い出も含まれるだろう。かつて日本全国のファミっ子たちが流した汗と涙が含まれるだろう。パッケージも付属品もそのゲームが辿ってきた製造の歴史である。市場価格もそのゲームが辿ってきた流通の歴史である。
どっちみち歴史なのだ。
邪道もへったくれもありゃしない。
🐍🐍🐍
ゲームはプレイしてなんぼ。内容ありきなのは言うまでもない。しかしながら上で述べてきたようにレトロゲームにおいては享受するスタイルの多様化に伴って、そのイベント性が無視できなくなって来ている。なぜならば
ゲームそのものが歴史を重ねてきているからだ。したがって私はその作品の魅力のすべて(あくまで主観ではあるが)を、内容だけで伝えることがどうしてもできないのである。こんな評価もあるよ、こんな歴史もあるよ、色んな角度から語りたくて仕方ないのだ。
我々はそれでも絵空事のように、、、
あの頃の熱狂のまま時間(とき)が止まった世界に生きているふりをしながら、白々しくレトロゲーム評を語らなければならないのだろうか。
|  | 内容以外も語って行こうぜ。 |
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