とくにオチはない雑考シリーズ。民俗学/宗教/オカルトが大好物なオロチが「スーパーマリオ」の世界観について、とりとめないない話をする第2弾です。
◆「人間vs動物」という構図◆ ファミコン版『スーパーマリオブラザーズ』のジャケットは宮本茂氏本人が手掛けたとして有名である。改めて全体を眺めてみると、これが
「人間vs動物」という構図であることに気づかされるのだ。

マリオは常に動物たちと戦ってきた。デビュー作『ドンキーコング』では怒り狂うゴリラに挑み、『マリオブラザーズ』ではカメ、カニ、ハエの相手をし、『スーパー』にてカメの親分と運命的な邂逅を果たすのである。それからはずっと寝ても覚めてもカメ一族との戦争に明け暮れる日々だ。
『USA』のヘイホーや『ランド』のタタンガ、『ランド2』のワリオ、『レッキングクルー』のブラッキーや『ヨッシーアイランド』のボドローなど、人間型(に見える)敵キャラクターも一部登場しないではないのだが、いずれの作品もシリーズの中では外伝系なポジション、あるいは派生作品とみなされているところに注意を払いたい。またマリオは『マリオカート』『スマブラ』といったスポーツ/格闘系の作品では多くの人間型キャラクターと対戦していることも忘れてはならないだろう。しかしながら彼の
“冒険譚”に限ってまなざしを向けるならば、その物語はつねに、執拗なまでに「動物たちとの戦い」を中心に描かれて来たのである。これはただの偶然なのだろうか。
◆動物と子どもたちの親和性◆ かつてキリスト教は一神教であるが故、未開の地のアニミズム(自然崇拝/動物崇拝)を野蛮な宗教として徹底的に排斥してきたことは前章(
※)でも述べた通りだ。旧約聖書の有名な一節を引いてみよう。
神は言われた。我々にかたどり、我々に似せて人をつくろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。出典:旧約聖書 創世記 1章 26節(iばいぶる)
ここにハッキリと示されている。彼らにとって動物は人間より下位の存在であり、崇拝の対象どころか支配の対象なのである。彼らが盛んに動物愛護や肉食反対をさけぶのはそんな人間中心主義の裏返しなのかもしれない。
改めてマリオ陣営の顔ぶれを確認していこう。マリオ、ルイージ、ヨッシー、ピーチ、キノピオ、デイジー、ロゼッタ、、、一部の気のいい怪獣を除いて見事に全員人間(人間型)ではないか。もちろん、そこには人間と人間の戦いでは「生々しすぎる」というつくり手による倫理的な配慮もあったであろう。人間と動物の戦いにしてしまえば寓話的/牧歌的なニュアンスを強調できるからだ。たとえば登場キャラクタに動物たちを配する物語は『アンパンマン』など
幼児向けコンテンツに広く見られる世界観である。ウサギやカバが人語を話し、服を着て、人間のようにふるまうのだ。アダムとイヴが禁断の果実を頬張った際、まずはじめに思ったのが「裸では恥ずかしい」という感情だったことが想起される。
そんな動物キャラクターがいるだけで子どもたちはすんなりとその物語に入っていけるものだ。よく考えたらそれは不思議なことである。動物と子どもたちの親和性はどこから来るのだろうか、、、


少年漫画に目を向けると『ドラゴンボール』がその代表格として挙げられる。ウーロン、プーアル、亀仙人と暮らすウミガメなどをはじめ、ドラゴンボールの世界にはごく普通の一般人にまじって動物型一般人もよく描かれていたのだ。しかし彼らの存在は、西遊記をリスペクトしたファンタジー路線から、宇宙を巻き込んだバトル路線へ作風が変化していくなかで徐々にフェイドアウトしていった。それをもってしばしば「ドラゴンボール」は
動物型一般人たちを表舞台から消し去ることによって幼児性と決別した、と解釈されることもある。だったらなおさらのこと、その根源に沈められているであろう「動物と子どもたちとの親和性」の正体を何としてでも突き止めなければなるまい。
◆ヌイグルミが握る鍵◆ もしかしたらその鍵はヌイグルミが握っているのかもしれない。
我が小学一年生になる愚息はいまだにヌイグルミ遊びに夢中である。リビングに溢れるそれらはクマであったりサルであったり何だかよくわからない毛むくじゃらであったりする。彼はヌイグルミ一体一体に名前をつけ大層かわいがっているのだ。たまに私が枕にして寝転がっていると血相をかけて抜き去っていくほどである(そして私は床に頭を強打する)。なぜ幼子はあれほどまでにヌイグルミに執着するのだろう。
イタリアの児童文学作家ジャンニ・ロダーリはその著書『ファンタジーの文法』の中で以下のように述べている。
子どもと動物玩具の関係をはっきりさせようと思えば、さらにはるか遠くの昔にさかのぼる必要がある。
つまりこういうことだ。息子はヌイグルミを傍らに置くことによって
人類の歴史を追体験しているのである。太古の昔、人類は動物と同等のくらしをしていた。幼子がヌイグルミに囲まれて生活しているように、人類もまた野生動物に囲まれて生活していたのだ。しかし人類はやがて火の扱いをマスターし、文字を発明することで、高度な文明社会を築き上げていく。我が愚息もやがては火の扱いをマスターしたり読み書きを覚えたりして立派な大人になっていくのだろう(そう願いたい)。
私はそこに「人類の歴史」と「人間の成長」のフラクタル構造を見たのだ。人類のDNAには
動物の一員だったころの「太古の記憶」が刻まれているのである。
◆意外な火の起源◆ ずいぶんと迂回してしまった。もうピンと来た方もおられるだろう。火の取り扱いをマスターしていると言えば、それこそマリオなのである。ファイヤフラワーを取ることによってマリオは火を獲得する。なんとも象徴的ではないか。動物と同等のくらしをしていた人類が火を獲得することによって動物たちを出し抜いたように、マリオは火を獲得することによって動物を蹴散らしていくのである。「マリオのパワーアップ」と「人類の歴史」。そんなところにもフラクタル構造は顔を出すのだった。
※『スーパーマリオブラザーズ』説明書より しかし興味深い指摘がある。英国の社会人類学者ジェームズ・フレイザーはその著書『
火の起原の神話』の中で
「未開の民族ほど火の起源を動物に求める傾向にある」と述べているのだ。たとえばネイティブアメリカンのツィムシャン族の間では火は最初にホタルが持っていたと信じられている。一方、ヌートカ族はオオカミが持っていたという。クワキウトル族 はミンクだという。その他、ハゲタカ、カラス、ミソサザイ、ハチドリといった鳥類や、カエル、ヘビ、イカなど多種多様の動物たちが、世界各地の未開の民族によって火の起源として語られているのである。もしかしたらマリオのファイアボールの起源も案外、クッパの炎なのかもしれない。
そう考えるとタヌキスーツしかり、ファイアボールしかり、人間vs動物という非アニミズム(=キリスト教)的な構図の中にあって、ときには動物の力を借りて戦うマリオの絶妙なポジショニングがより一層、物語に深みを与えているように見えてくるのだ。何度も言うようだが、それが意図された演出であるかどうかは重要ではない。むしろ製作者が無意識のうちに影響を受けてきた宗教なり思想なりが、物語のディテールとなって表出した“何か”にこそ真実は宿るものなのだから。
|  | とくにオチはない と言いつつ一応オチてるかな |
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【スーパーマリオをめぐる雑考】 全4回
1.タヌキスーツの異質性
2.なぜマリオの敵は動物なのか
3.マリオ世界の「死」について
4.テレサは何のお化けなのか
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