ご存知、高橋名人はゲームメーカーの一社員でありながら、1985年に始まったハドソン全国キャラバンで『スターフォース』のお手本プレイを披露するや否や、その華麗なコントローラさばきや異常なほど速い連射でファミっ子たちの心を鷲掴みにしました。彼のファミコン名人としてのキャリアはそこからスタートします。それからは嵐のようなファミコンブームに乗って歌を出すわ、映画に出るわの大活躍。一躍、時の人となったのでした。
しかし1987年にPCエンジンが発表されると、本来のハドソン営業職に専念するため
「ファミコン名人」としての活動を封印し、メディア等の露出を控えるようになったんです。それは説明するまでもないですがファミコンのライバル機種となるPCエンジンを売らなければならない立場だったからですよ。あえてご語弊を恐れずに極端な言い方をするならば、彼はある時期から
ファミコンの反対勢力となったわけです。なんともセンセーショナルでドラマチックな展開じゃないですか、、、
※映画「GAME KING 高橋名人vs毛利名人」の有名なシーン そう考えると高橋名人が
ファミコン名人として活躍したのは2年間だけだったんです。たったの2年間ですよ。衝撃ですよね。彼の残した偉大なる功績を考えると、それはあまりにも短かったと言わざるを得ません。そんなファミコンブームを牽引してきた男がある日突然ライバル機種「PCエンジン」の宣伝マンになったのですから、今思うとルイス・フィーゴがバルサから宿敵レアルに電撃移籍したぐらいの大事件だったはずです。にも関わらず不思議なことに当時、小学生としてハナを垂らしていた私にはそこまでの印象がないんですよね。思えば、例のデマ騒動(逮捕説/死亡説)があったのは、PCエンジンが発売される前年の1986年のことでした。逮捕説や死亡説が流れるということは、その頃にはすでに
名人の活動がピークを過ぎていた可能性が高いのです。もしかしたらすでに活動をセーブしはじめていたのかもしません。
おそらく現実はそこまでセンセーショナルでも、ドラマチックでもなかったのでしょう。ファミコン名人を名乗らなくなってからの高橋名人は、そこまで露骨にPCエンジンの最前線にはいなかったですし、その後もファミコンでは『高橋名人の冒険島』シリーズは続いてました。そもそもハドソンは早いうちからコロコロコミック専属メーカーみたいな売り方をしており、
ファミマガやファミ通など他誌で大々的に新作特集が組まれることも、広告以外で高橋名人が出てくることもなかったのです。改めて思えば子ども心に違和感のようなものがありましたね。逆に言えばもともと他社とは一線を画すイメージが当時のハドソンにはありました。したがって、新しいハードを出すといったところで、いい意味で「へーえ」ぐらいの話でした。少なくとも「ゲームハード戦争勃発じゃあ!」みたいな感情はありませんでしたね。あくまでも当時ハナを垂らしていた素朴な小学生の印象です(笑)
何はともあれ、こうして30年経った今でも
「ファミコン神」と呼ばれる強烈なイメージを残した高橋名人が、偉大な人物であることに変わりありませんし、そんな濃厚な2年間をファミコン少年として共に過ごすことができた奇跡に感謝の気持ちでいっぱいです。
|  | 正直「ファミコン神」とは呼ばれてなかったけどね |
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高橋名人
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