◆動物分類表◆ 『あつまれ どうぶつの森』(以下あつ森)をプレイしていると、自由に歩きまったり話したりできる可愛らしい「どうぶつキャラクター」たちが登場する一方で、ただのアイテム(物)として所有され、晒され、ときには売却されてしまう悲しい動物たちがいることに、強烈な違和感をいだくことはないだろうか。彼らの運命を分かつ境界線は、いったいどういう基準でもって引かれているのだろう……
そこで私は、ひとまず、シリーズに登場する動物を表にまとめてみることにしたのである。こちら↓。
※うす字は過去のシリーズに出た動物の種類 ※明らかに動物ではない非動物系キャラクターは除外 上から見ていくとまず目を引くのは、圧倒的に多い哺乳類の存在だ。哺乳類は例外なく「どうぶつキャラクター」となっているようである。哺乳類はさらに雑食性、草食性、肉食性に分かれるが、これはあくまでも参考程度だ。こうすることで何か見えて来るかなと思ったもの、とくに何も見えて来なかったことを白状しておこう。
その次に多いのが鳥類だ。鳥類にもフクロウやワシなど肉食性のグループが存在する。某館長などそれを逆手にとって「虫が苦手」というピーキーな性格を付与されてしまい、我々は毎回、彼の芝居がかったリアクションを無表情で見届けるハメとなるのだった。それから爬虫類、両生類とつづくのを見て私はある仮説を立てたのだ。すなわち
脊椎動物がキャラクターで無脊椎動物がアイテムになっているのかもしれないと……
しかし、その無邪気な予想は8本足の悪魔
「タコ」の存在によって、即座に打ちのめされてしまうのである。
◆タコの異質性◆ この表を見た限りでは、アイテム側にいてもおかしくない魚介類に属している軟体動物/頭足類のタコが住民入りを果たした理由は何だろうか。考えられるとしたらそれは
「知性の高さ」であろう。サイ・モンゴメリー著「愛しのオクトパス」によると地球上の全生物のうち95%を占めるという無脊椎動物のなかでタコは一番頭がいいのだという。同じ軟体動物の二枚貝には脳すらないことを考えると、それがどれだけ突出したことなのかが、嫌でもわかるだろう。
※ドーナツ状の脳を持っているタコ住人たち 具体的な数字の話をすると、一般的に知性の高さを示すと考えられている脳の神経細胞(ニューロン)の数は、タコがおよそ5億。ねずみが2億、カエルが2000万弱なのである。これは驚くべき数字だ。なんたってタコは
頭の良さでいえば犬と変わりないのだから!
また、日本ではタコを「多幸」と書き、縁起の良い食材として世界一の消費量を誇っている。寿司をはじめ、たこ焼き、たこ飯(タコライスでない)など、タコは日本人にとって身近な存在なのだ。『あつ森』にはタコではなくむしろ「たこ焼き」を擬人化したようなタコヤというキャラクターが登場するのがその顕著な一端と言えよう。一方、欧米でのタコのポジションはまるで正反対である。デビルフィッシュと呼ばれ忌み嫌われているというの話は有名であろう。ただし、スペインやギリシャなど地中海沿岸部ではふつうに食材として消費されている事実はあまり知られていない。
しかしながら、だからといって夏のアップデートだ……
※海産物としてのタコを捕獲した決定的瞬間 よりにもよって、解禁された
海水浴(素潜り)でタコが獲れてしまうのは、いったいどういう了見なのだ。ひとつの世界に、住民(キャラクター)として登場するタコと、海産物(アイテム)として登場するタコが存在するという、この、残酷な隔(へだ)たりを、私はどう解釈したらいいのだろう。まるで
笑顔で仲間を売るトンカツ屋の看板に描かれたブタのキャラクターのように、底知れない闇を抱えながら彼らは人間に愛嬌をふりまきつつ、島生活を謳歌しているとでもいうのだろうか。
※ちなみにイカの住人がいない理由については、任天堂の看板ソフト『スプラトゥーン』の主人公格がイカであるため、何らかの忖度(そんたく)があったことが想像される。GAME&WATCH時代までさかのぼればタコのほうが古参ですし。 ◆カエルの異質性◆ 実は今回のアップデートよりも先に、そのような闇を抱えていた「どうぶつキャラクター」が存在したのである。
「カエル」だ。
※愛らしいカエル系住人たち 上述の通りカエルは現段階では唯一の両生類キャラクターであるが、無脊椎動物のタコよりも知性が低いばかりか、残念ながら全住民のなかでもダントツで脳の神経細胞(ニューロン)の数が少ない動物でもあるのだった。そのような特徴が災いしたのか、カエルは
「釣りで捕獲できてしまう」という、屈辱的ともいえる状況がごく早い段階から確認されていた唯一のキャラクターでもあったのだ。さらに『あつ森』世界ではオタマジャクシすら捕獲できてしまうため、もしカエル系住人が家にオタマジャクシを飾っていたならば、それはただの子育てではないか!
※カエルが釣れることを示唆するジャスティン 私は当初『あつ森』の世界が、食事を連想させるアイテムや食材そのものを極端に制限している理由として、プレイヤーが共食いを連想してしまうことを回避するためと考えていたのだが(
※)、過去のシリーズ『とびだせどうぶつの森』には、フランクリンという料理イベントを発生させる七面鳥のキャラクターが登場し、がっつり魚料理などつくっていたらしいので、ただ単に『あつ森』には実装されてないだけということを知った。それどころか、当初、フランクリンには
「住人から食材と思われるのを恐れ身を隠している」という設定があったらしく、軽いショックを受けたばかりである。かつて公式がそのような闇ジョークを許容していたならば、カエル系住人にカエルを渡したときだって、何らかの闇ジョークが飛び出しても良さそうなものなのだが今回はそうではなかった。彼らにカエルを渡しても「うわー元気だねー」とか「欲しかったんだよー」とか、まったくもって通常の対応をされてしまうのだ。むしろそんな反応をされるほうが
闇深さを際立たせてしまっているではないか。彼らは自分のことを何者だと思っているんだ?
カエルといえば古来より日本人の身近な動物だった。「古事記」や「万葉集」にも登場するほか、漫画の元祖と呼ばれている「鳥獣戯画」には、擬人化されたカエル、ウサギ、サルが描かれていたことが印象深く想起される。
※イメージ:Wikipediaより 一方、海外には「かえるの王さま」「おやゆび姫」など数多くのカエルが登場する物語が存在するものの、西欧社会は「動物は人間が支配すべき存在」と教えるキリスト教の影響からか、人間がカエルに変身する話では懲罰的に描かれることが多かった。それは『魔界村』でアーサーがカエルに変身してしまう演出でもお馴染みであろう。FFシリーズの黒魔法『トード』の存在も見逃せない。
いずれにせよ、善悪のイメージに差はあるものの、物語の世界では擬人化されたカエルなど珍しい存在ではないように思える。問題なのはむしろ、せっかく
住人の座を勝ち取ったにもかかわらず「釣れてしまう」という不条理な仕打ちのほうではないだろうか。なぜ『あつ森』世界の境界線は、あまりにも恣意的で、わざわざ矛盾を引き起こすように引かれてしまうのだろう……
※ちなみに過去シリーズではコトブキというカメのキャラクターも出演していたらしい。一方、『あつ森』ではカミツキガメが捕獲できてしまうので、今後のアップデートによっては第3の闇キャラクターとなるだろう。◆ノアの箱舟◆ どうしても納得できない私は、絶対に安心して語れそうな魚類にスポットを当ててみることにした。前回の考察記事にも触れたとおり(
※)、『あつ森』は(今のところ)食肉文化をオミットする傾向にあるのに対して、魚食文化についてはかなりオープンな世界観を構築しているように見える。ところで、私が冒頭に貼り付けた表を見て「魚って動物だったの?」と思ったひとは少なくないだろう。でも安心してほしい。2011年発行、ハロルド・ハーツォグ著「ぼくらはそれでも肉を食う」によると、アメリカ人のなかには
菜食主義者ですら魚を動物と思っていない人間がたくさんいるらしいのだ。たとえばとある菜食主義者の女性は「魚は動物ではない」という直感的分類法のおかげで、15年もの間ずっと、鮭の燻製(くんせい)やレモン汁を添えた網焼きの太刀魚などを味わってきたと、いっさい悪びれる様子もなく語ったのだという。
※フグを手に「てっちり、てっちり」と喜ぶプレイヤー その話を読んだとき、私は唐突に「ノアの箱舟」を想起したのだった。御存知、聖書の有名なエピソードのひとつであるノアの箱舟は、神様が善良なる人間ノアに向かって
「今から大洪水を起こして地上を滅ぼすから、めちゃでかい船つくってすべての動物を乗せといてね!」という、とんでもないムチャブリをかます話である。
すなわち、鳥はその種類にしたがい獣はその種類にしたがい、また地のすべての這うものも、その種類にしたがって、それぞれ二つずつ、あなたのところに入れて、命を保たせなさい。
ここで神が命じた乗船対象となる動物に注目してもらいたい。そこには魚類をはじめとする海洋生物を思わせる記述がまったく見当たらないのだ。洪水後も「地上のすべての動物が滅亡した」とあり、海洋生物については言及されていない。このため、
魚類をはじめとする海洋生物は箱舟に乗らなかったとするのが聖書研究者のあいだでも一般的な見解なのである。つまり、魚類は神様に完全スルーされてしまった哀れな存在なのだった。
※ただしその後「人間が支配する動物」の件(くだり)になるとちゃっかりメンバー入りしていいたりする
※いらすとや 人類初の博物誌と呼ばれる『動物誌』を著したギリシャの大哲人アリストテレスですら「ウナギ、エビ、タコなどは海底の泥から勝手に産まれる」と記述していたことも考えると、西欧社会における魚介類の扱いのザツさは、長い年月によって根付いた文化的感覚なのかもしれない。思えば『あつ森』の世界のあまりにも恣意的な線引きにしたって、まるで
ノアの箱舟における神様のそれではないか。神は大洪水を起こすことでノアと動物たちによるまったく新しい世界をつくろうとした。我々もまた無人島を開発することで人間とどうぶつたちによるまったく新しい世界をつくろうとしている。そういえばノアの箱舟は3階建てだったな。我々の島も崖3段じゃないか。これは偶然と思えない。掲示板の上に止まっている鳥は、さしずめ洪水が引いたかどうか確認する要員か?
◆系統樹の謎◆ 妄想はここまでにして、そろそろ博物館の例のアレについて言及しておこう。このゲームでは採掘した化石を博物館へ寄付することができる。寄付された化石は展示コーナーに飾られるのだが、その会場全体がなんと「進化系統樹」になっており、しかも
その枝が最終的に各どうぶつキャラクターのシルエットへつながるという演出が施されているのである。聞いた話によると、とある古参プレイヤーはこの系統樹を見て閉口したんだとか。
なぜならそれは「どうぶつキャラクター」たちが
動物から進化した何者かであることを示唆しており、「人間のコスプレ説」や「動物型アンドロイド説」など諸説をことごとく否定してしまうものだったからである。したがって、そのような公式見解(のように見える展示方法)に納得できない一部プレイヤーから「謎のままのほう良かった」という声があがったのだ。しかしそんな声を嘲笑うように、この進化系統樹は一番右側が空席になっており、プレイヤーが並ぶことでライトが点灯するというオチを用意していた。最終的に一番進化したのは「人間ですよ」と言わんばかりに。
※左からワシ、コアラ、カンガルー、ゾウ、アリクイ、ネコ、イヌ、クマ、キリン、サイ、ブタ、カバ、ウシ、シカ、(以右はウサギ、ネズミ、サル、空席) 人間の展示といえば19世紀後半に活躍した動物王カール・ハーゲンベックの「民族展」が想起される。溝井裕一著「動物園の文化史」によると彼は珍獣輸入業で一財産を築いたあと、人間に手を出し始め、1874年、極北より連れて来たラップランド人の展示が大成功したのを皮切りに、グリーンランドのエスキモー、セイロン島のシンハラ人など、次々と展示を成功させたのだという。このハーゲンベックの興行がことごとく受け入れられた背景には西洋のひとびとの自然観が大いに関係するのだ。西洋社会では「自然」は、「文化」と完全に切り離された未開の領域とみなされており、非西洋文化は「自然」と「文化」の間にある野蛮なものと位置付けられていたのだった。早い話、
未開の民族たちは「動物の仲間」と皆が思っていたのである。
そもそも博物館というシステム自体がきわめて西洋的だと言わざるを得ない。それは動物を、ひいては自然界そのものを支配しようとする権力誇示装置に他ならないからだ。となると逆に、この系統樹の行きつく先が、あえて上位の段に配されたシルエットなのは卑俗な自然界より
「文化の側へ至った選ばれし者たち」を示していると考えることもできよう。上述の古参プレイヤーは本ゲームが「どうぶつたちと仲良く暮らすユートピア」という皮を被っていながら、内状には歴然とした選民思想が横たわっていたという事実にドン引きしたのかもしれない……
しかし、よく見るとこの系統樹にはワシ以外の鳥類、爬虫類のワニ、そして闇深きカエルとタコが見事に除外されていたのだった。私はまたしても、限りなくあいまいで、矛盾に満ちた「恣意的な線引き」に行く手を阻まれてしまったのだ。
◆そして辿り着いた「自然の摂理」◆ 以上のように考えを巡らせて来た私は、とうとう気付いてしまった。そもそも人間と動物を隔てる境界線が存在すると思っていること自体が人間の驕(おご)りなのかもしれないと……
かつてデカルトが「動物は機械に過ぎない」と言い放ったのが最たる例じゃないか。私には「知恵の実をぬすみ食うまで人間は、動物たちと楽園で仲良く暮らしてた」という聖書のエピソードが気の利いた皮肉にしか聞こえない。同様にキャラクターとアイテムを隔てる境界線が存在するなんて思うのも驕りに過ぎなかったのだろう。最初からそこには境界線など存在しなかったのだ。まるでハイゼンベルクの不確定性原理にように、キャラクターの定義を明確にしようとすればするほどアイテムの定義があいまいになり、アイテムの定義を明確にしようとすればするほどキャラクターの定義があいまいになる……
ふかくていせい‐げんり【不確定性原理】 の解説
量子力学における基礎的原理。原子や電子などの世界では、一つの粒子について、位置と運動量、時間とエネルギーのように互いに関係ある物理量を同時に正確に決めることは不可能であること。1927年にハイゼンベルクが提唱。
不確定性原理とは万物を形作る素粒子の性質を表したもの。それが
「自然の摂理」であったことを私はすっかり忘れていた。ああ、素晴らしき自然。偉大なる自然。あの全裸の白い犬が奏でる曲はきっと自然賛歌に違いない。キャラクターとアイテムの境界線が限りなくあいまいで、矛盾に満ちていることを何度も何度も思い知らされたからこそ気づくことのできた真理。それが制作側の意図だったのか、そうでないのかは正直どうでもいいのだ。なぜなら、重要なのは
“結果的に『あつ森』がそうなっている”という事実のみなのだから。





※参考文献 まったく、うっかりしていた。どうやら私は井の中の
カエルのように思考が凝り固まっていたようだ。普段から、もっと
タコのように柔らかい頭でありたいものである。
|  | ちなみにオロチの島は なぜかカエルの住人だらけだよ ヘビとしては嬉しいけどね…… |
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