◆斧を取る行為=ゴール説◆ なぜクッパは自らの背後にわざわざ斧を設置したのだろう。
言われてみれば不思議な話である。彼は煮えたぎる溶岩に、わざわざ不安定な吊橋を渡し、その上でマリオを待ち構えている。それだけなら自分の得意なフィールドに敵を誘い込む作戦だったのかもしれないが、なぜか
「これで吊橋を断って俺を溶岩へ突き落としてみろ」と言わんばかりに、ご丁寧に橋の袂(たもと)に斧まで設置してるのだ。しかもそれがフェイクなら、陽動作戦とみなすこともできよう。しかしこの斧、あろうことか鎖を一刀両断できるほどピッカピカに砥(と)いである始末。まさに墓穴を掘るという言葉そのものではないか。
彼はいったいどんな心境で、自らの背後に斧を設置することを思いついたのだろう、、、

2000年代に提唱されたゲームニクス理論
(※)では、それを
「この斧を取ればゴールだとわかりやすく示すため」と説明した。なるほど。クッパはファイアボールでも倒すことはできるものの、ない場合はどうすればいいのか。そもそも、この部分だけ天井が低くなっており、我々はクッパを回避することができたとしても、この斧だけはどうしても取ってしまうのだ(取らないバグ技もあるが)。するとどうだろう。吊橋は崩れ落ち、クッパは煮えたぎる溶岩の海へ真っ逆さま、、、
こうしてプレイヤーは自然な形でもって「斧を取る行為=ゴール」と認識するというわけである。
※ゲーミフィケーション理論という記述を修正◆衝撃を受けた息子のドラクエプレイ◆ しかしながら、そのような説明はあくまでもレベルデザイン論であって、我々のようなファミっ子にはまったく関係ない話だ。

それは、たとえば『ドラクエ』の洞窟に宝箱が落ちている理由を
難易度調整のためと言ってるようなものである。いやいや、そうじゃないんだよ。我々はドラクエをプレイするとき、常に物語の内側から世界を見ているはず。物語の外の都合など知る由もない(或いは知りたくもない)のである。ふいに我が息子のドラクエプレイを思い出す。息子が小学3年生になったとき『ドラクエIII』をやらせてみたことがあった。すると彼は初めて新しい町へ向かうことになったとき、なぜか怯(おび)えながらフィールドをジグザグに歩き始めたのだ。理由を聞くと息子は
「こうやって歩いてたほうが敵に見つかりにくいでしょ」と無垢に言い放ったのだった。
・
積みゲー親父が『ドラクエ』デビューした小3息子に教えられたこと 私がこの言葉にいかずちのような衝撃を受けたのは言うまでもない。ゲーマーの常識的に考えれば、それは
いたずらにエンカウント率を高める行為でしかないからだ。しかし彼はじっさいにドラクエ世界のなかにいた。草原を歩くときは草木に、岩場を歩くときは岩に身を隠しながら、息子は命懸けで次なる目的地へ向かっていたのだ。私はその姿に、まだ何も知らなかった我がファミっ子時代を重ね合わせざるを得なかったのである。
なぜ洞窟に宝箱が落ちているのか。息子だったらどう答えるだろう。たとえば「
洞窟=パチンコ説」のような、少しばかり馬鹿げていてもいい。
物語のなかで説明してくれたなら、私はいくらでも受け入れてみせるのに、、、
◆物語の外に出てしまう瞬間◆ しかしながらクッパの用意した斧については、いくら逆立ちしても、ついぞ納得できる「物語のなかの答え」を見つけることはなかったのだ。いや、むしろ、それはムリもない話だったのかもしれない。なぜなら私は今までそんなことを疑問に思ったことがなかったからである。つまり私はこの「クッパの斧」というレベルデザイン上の都合でしかないものを
とっくの昔に受け入れていたのだった。いったいなぜなのだろう。たとえば名作『ドラゴンスレイヤーIV』をやっているとき、私はしばしばこう思ってしまうことがあったのだ。
こんなん、面倒くさいだけやん、、、

このゲームには
「ただやたら入り組んでるだけの一本道」が頻繁に出てくる。ギミックが駆使されているステージが多いなか↑のような良い意味で頭を使う必要のないステージもバランスよく散りばめられているのだ。そんなことはわかっている。わかっているのだけれども、私はこのような冗長なコースに出くわすとワクワク感よりも「ただ遠いだけやないかい!」という不審感のほうが勝ってしまうのだ。それはあえて大袈裟に表現するならば
“物語の外に出てしまう瞬間”と言えるのかもしれない。その度合いが強烈すぎると、あるいは電源ボタンへ手を伸ばすなんてことにもなるのだろう。
たとえばギリシア神話に登場する牛頭の怪物「ミノタウロス」はミノス王によって建設された迷宮(ラビリンス)に閉じ込められたとされている。建物がわざわざ迷路のようになっているのはミノタウロスが出られないようにするためだ。ツッコミどころ満載な話であるものの、
一応、迷路の説明にはなっているだろう。実は『ドラゴンスレイヤーIV』にも似たようなバックストーリーがあって、説明書にちゃんと書いてあるのだが、どうやら私はそれを読まなかったらしい。もしそれを読んでいたならば、物語のなかの理由を知っていたならば、私はこのただ入り組んでいるだけの一本道を受け入れることができたのであろうか、、、
◆ビデオゲームにおけるシンボル論◆ しばしば映画や小説のような表現作品において、描写されているものをそのまま受け取る行為は、如何にも浅薄な了見とみなされることがある。ビデオゲームの場合も同様で『ドラゴンスレイヤーIV』のただ冗長なだけに思える一本道は、あくまでも迷宮の険しさを表現する手法であって、実際にそうなっているわけではないと主張することもできるだろう。それは『ドラクエ』のマップを見て
「勇者はお城と同じ大きさなのか」と勘違いする人間がいないのと同じ原理であり、我々ゲーマーは(とくにレトロゲーマーは)「画面に描写されているものがただのシンボルであること」を心の奥底では理解しているはずである。

そう考えるときっとクッパの斧もシンボルの一種に過ぎないのだろう。なぜなら、
斧を踏むとふつうは大怪我をするではないか。しかもマリオは、わざわざジャンプして踏んでいるのだから正気の沙汰ではない。もしあの斧が描かれたままの姿ならば、マリオは股から真っ二つになるか、最低でも足を何針か縫うハメになるだろう。しかし不思議なことに、当時ファミっ子だった私は平気で斧を踏んでいたように思うのだ。まるでそれがシンボルであることを最初からわかっていたかのように、、、
ただしクッパの斧がたとえ何かしらのシンボルであったとしても、それを取ることによって
吊橋が崩れ落ちることには変わりないのだ。つまり依然としてそこに「レベルデザイン上の都合でしかない何物か」が設置されていることには変わりなく、なおかつ、その謎の物体に「物語としての根拠」を求めることなく、すんなり受け入れている私がいる事実も何ら変わりないのだった。
スーパーマリオの世界とドラクエの世界では、いったい何が違うというのだろう、、、
◆スーパーマリオの劇場型演出◆ そろそろ核心に迫ろう。以上のように「クッパの斧」について思考を巡らせてきた私は唐突にあることを思い出したのだった。それは『スーパーマリオブラザーズ3』の説明書の冒頭部分である。そこには「マリオからのメッセージ」と題された以下のような文章がつづられていたのだ。
「ヤッホー!! みんな元気だったかい。(中略) 今回僕達が活躍する“スーパーマリオブラザーズ3”はスーパーマリオシリーズの最新作として3M(メガ)という大容量を充分に生かした多彩なテクニカルファンタジーゲームなんだ。(中略) ちょっぴり自信のない初心者から前作、前々作と遊び込んだスーパープレイヤーまで幅ひろーく楽しんでもらえるよ。(以下略)
なんと、マリオは堂々と
メタ発言をしているのだった。メタ発言とは物語の登場キャラクターが知り得ない物語の外の情報を口にすることで↑のような「プレイヤーへ語りかける行為」はその最たる例といえるだろう。これが何を意味するのかと言えば
「我々キャラクターは演じてるだけですよ」という暗黙のメッセージである。そもそも『3』のコンセプトからして、明らかに「舞台演劇」を意識していたことは明白だったのだ。

・オープニングで赤い絞り緞帳(どんちょう)が上がる演出
・マリオとルイージが幕前で繰り広げるコミカルな寸劇
・舞台背景セットの特徴を備えたステージオブジェクト
(一枚絵、影、ボルト止め、吊り下げなど)
・しかもその背景セットは裏へ回ることができる
・各ステージのゴールが暗い
(舞台照明の当たらない幕間へハケる行為の象徴)
『3』の説明書はさらにマリオに割って入るかたちでクッパが
「これから俺様の息子達がこのゲームの説明をするぜ」とノリノリで登場したり、子クッパのひとりがマリオの操作方法のページで「この表を見てマリオの動きをよーく研究しとくのさ」と発言したり、メッタメタのバーゲンセールなのである。
※『スーパーマリオブラザーズ3』説明書2Pより 今思えば、このようなスーパーマリオシリーズの劇場型演出は、のちの『マリオカート』や『マリオテニス』といった
スポーツ系スピンオフ展開への布石だったことに気付かされるのだ。もはや説明不要だとは思うが、これらのスピンオフ作品では、一国を滅ぼしかけるなどとんでもない悪事を働き続けるクッパや、旧知の宿敵ドンキーコングたちと、マリオが仲良く遊び倒しているのだった。
◆ゴールの先に待っていた"答え"◆ ただしそのようなメタ的な演出は『3』で突然始まったわけではなかった。元々任天堂がマリオというキャラクターに対して
スターシステムを採用していたことを考えると、むしろ、至極まっとうな道筋だったとすら言えるのだ。
「同一の作家が同じ絵柄のキャラクターをあたかも俳優のように扱い、異なる作品中に様々な役柄で登場させるような」表現スタイル
かつてマリオが『ゴルフ』ではゴルフプレイヤーを、『テニス』では審判を、『パンチアウト!!』ではレフェリーを務めていたことをファミっ子なら誰でも知っているだろう。そして、主役として登場した初代『スーパーマリオブラザーズ』では、必至こいて救い出した
ピーチ姫にマリオが何と言われたか、、、
当時、ファミっ子として洟(はな)を垂らしていた我々は、英語の意味こそわからなかったけれども、なんとなく字面で理解していたはずである。今、読み返してみると私は、その異質さを改めて思い知らされるのだった。

THANK YOU MARIO! YOUR QUEST IS OVER.
WE PRESENT YOU A NEW QUEST.
PUSH BUTTON B TO SELECT A WORLD.
ありがとうマリオ。あなたの冒険は終わりました。
私たちはあなたに「新しい冒険」をプレゼントします。
Bボタンを押してワールドを選択してください。
マンマミーヤ!
ピーチ。すべて”君たち”が仕組んだことだったのかい。ああ、なんてこったい。ゴール前に都合よく斧が置いてあるなんて、おかしいと思ったんだよ。どうやら僕は、一杯食わされたようだね。はいはい。わかってるよ。さっさと新しい冒険に行けってんだろ。まったく、君には敵(かな)わないよ、、、
なんてマリオが言ったかどうかは知らないが
答えはあっけないほどゴールのすぐ先にあったのだった。
◆悲しき運命(さだめ)◆ かつてマリオの生みの親・宮本茂は
「マリオは人をころさない」と言い表したことがある。マリオの冒険がガチではないことを、当時の私は察していたのだろうか。それまでジャンプしようがBダッシュしようが絶対に踏み外さなかった足場から、ミスしたときに限って急にカメラ目線になり、その場で大袈裟に飛び上がって見事に足を踏み外し、奈落の底へ落ちてみせる
まるで喜劇役者のようなマリオの姿から、その思想を汲(く)み取っていたのだろうか、、、
ひとつだけ確かなことが言えるとしたら、スーパーマリオの登場キャラクターたちは
この世界がゲームであることをとっくの昔から自覚していたということだ。自覚したうえで物語を演じていた。それはクッパとて例外ではない。彼は背後に斧が設置してあっても何ら疑問に思わなかった。思ってはいけなかった。なぜならこの世界はゲームだから。そして自分はゲームのキャラクターだから。たとえそれが自らに禍(わざわい)をもたらす存在であろうとも。決して疑問に思ってはいけなかった。だから彼はいつなんどきであっても、当たり前のようにピッカピカに磨いた斧を背にしてマリオと対峙しているのだ。
もしかしたら、それはそれで物語なのかもしれない。
|  | ピーチのセリフ、2行目以降は地の文とかいうツッコミだけはするなよ!絶対にするなよ! |
|
- 関連記事
-