スクウェア元社長の和田洋一氏が語る「経営者としての足跡」が話題になっています。

※任天堂本社より
和田氏は16年間の證券マン時代を経て2000年4月スクウェアに入社。翌年には代表取締役社長兼CEOに就任し、その後、エニックスと合併した誕生したスクウェア・エニックスの代表取締役社長にも就任したした出色の人物です。
そんな和田氏
「経営者はその足跡について1ミリ単位で説明できなければならない」というのが持論だそうで、今回、NOTEにその内容を記していました。当ブログが注目したのはその中でも、主に其の弐で語られているあの「任天堂出禁」事件の真相であります。
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そろそろ語ろうか(其の壱)|和田洋一|note・
そろそろ語ろうか(其の弐)|和田洋一|note 「任天堂出禁事件」とは当時スクウェアが何らかの行為をして任天堂から出入り禁止、すなわち任天堂プラットフォームからの追放を喰らったという事件。その期間はじつに8年間にも及びました。社長に就任した和田氏はまず任天堂との関係を修復しようと試みました。そのためには「出禁事件」の真相を確かめなければなりません。
当時、ゲーム業界内外で様々な憶測が飛んでいました。その中でも有力だったのが「スクウェアがPSへ乗り換える際、64を貶した」というものでしたが、和田氏はそれらの噂話を当てにせず自らヒアリングに奔走し、以下のような要点をまとめます。
・声が大きく、開発会社のソニー・シフトの象徴的存在として扱われてしまった。つまり、個社ではなく業界代表として的になった。
・デジキューブにより、任天堂の流通機構を完全否定した。任天堂は玩具屋の問屋組織を基礎にゲーム流通を組み立て、ソニーは音楽CD流通を活用。スクウェアはこれに加え、コンビニを流通チャネルに仕立てた。試みは革新的だったが、IPOアピールの過程で、任天堂のビジネスがいかに「遅れた」ものかを喧伝してしまった。このため、ゲーム機だけではなく、任天堂のビジネスそのものに難癖付けた形になり、さらに任天堂を硬化させる事になった。
・直接接する先方経営陣にぞんざいな姿勢で臨み、公式外交ルートを失った。
・確認できなかったが、スクウェア創業者と山内社長(任天堂)との個人的愛憎も絡んでいたのではないかと感じられた。
以上のような見解から、そもそもの発端は
「スクウェア側の配慮不足による感情の行き違い」だったと結論付けた和田氏は、そこから任天堂担当者へ接触。
その後、2001年10月にソニーからの出資を受けるなど、紆余曲折の末、とうとう彼は任天堂本社最上階の応接に通されることになりました。なぜかこのNOTEでは語られていませんが2001年といえば、ギネスブックに掲載されるほど損害を被った、あの「ファイナルファンタジー」 映画の大失敗があった時期ですね。
山内社長は、私がゲーム業界に転じてから最も尊敬する経営者であったため、話す事は一言も漏らすまいと臨んだ。応接に現れた社長は、どこで売っているんだろうと思わせる上下紫のスーツ。銀髪が光り、ラスボス感が半端ではない。眼光鋭く、甲高い早口で、「証券会社には何年いたのか」と質問してきた。
16年と答えると意外そうに「ほぉ、そんないたんか」と表情が緩んだ。ビジネスマンとしての品定めだったのだと思う。
緊張感が伝わって来ます……
それからスクウェアが任天堂と取引を再開したことがが報じられたのは2002年3月のことでした。それまでに任天堂、スクウェア、そしてソニーのあいだで様々な駆け引きがあったことを、和田氏は詳細に語っています。詳しくはNOTEをご覧ください。
|  | ドラマ化してほしい。 |
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