◆ファミコン想像力論◆ 先日、レトロゲーム界のとある人物がドット絵の魅力について「想像力で補えるところがCGよりも優れている」というようなことを仰っていて
「ファミコン想像力論」の根強さを思い知らされました。

証拠はないんだけど、僕の記憶では一番初めにこの「ファミコンは描かれてない部分を想像力でカバーできるところが良い」みたいな論調を唱えたのはタレントの伊集院光氏で、時代はたぶん90年代から2000年代にかけての第一次ファミコン再評価期だったんだよね。雑誌だかラジオだかで氏が語っていたこの言説が人口に膾炙
(かいしゃ)したのではないかって思っている。
(※一番最初に言い出したのは誰なのか、もしご存知の方がいたら是非教えてちょ。) なぜかっていうと、何を隠そう僕もその発言に感銘を受けたひとりだったのだ。実際に僕は2000年頃につくったファミコン版「SOCCER」の攻略ページに
「その未熟な部分には僕たちの想像力が入る隙があるんじゃないか」なんて書き散らしてるんだよ。
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「SOCCER」攻略ページ(初期ファミコン任天堂サッカー) 別にパクったわけではなくて、むしろ「ファミコン想像力論」はファミコンを再評価するときの常套文句として当時、広く認識されていたということが言いたいのだ。したがって我々のようなファミコン世代、あるいはそれよりも上の年代の人間がこのようなことを言いだしたってなんら不思議なことはない。むしろ。はいはい。いつものやつねって感じなんだよ。
今まではね!
◆コノハムシは狡猾なのか?◆ 評価というのは時代によって移ろいゆくものでございます。あくまで僕の観測上であることを断っておくとして、もはや令和の現在、上述のような「ファミコン想像力論」は時代性とマッチしないのではないかというのが今回の言いたいこと。
たとえば
「コノハムシ解釈」って言葉がありますよね。
写真:ゆんフリー写真素材集 あれはいつだったか。学校休んでテレビを見てたら教育番組特有の物知りジジイみたいなキャラクタが出てきたんだよ。何を言うかと思ったらコノハムシのことを
「まさに大自然の叡智(えいち)じゃ!」なんてしたり顔で褒めたたえててね。それを見た僕は子ども心になんだかヘンな違和感をかんじたんだよね......。
そりゃあすごいとは思うよ。本当に葉っぱにそっくりだし。どうしてそうなったのか意味不明なくらいすごいと思う。でも、それを理由にコノハムシに対して「頭がいい」だとか「狡猾
(こうかつ)」だとか持ち上げる風潮があるじゃない。僕は昔からそういう世間の風潮に疑問があったんだよね。なぜかっていうと彼らは厳しい自然環境の中でたまたま葉っぱに似てる固体が敵から襲われにくかったため生き残ったわけじゃんか。そんな経験を何世代にもわたって、途方もない年月を費やして繰り返していくうちに0.1mmずつ0.01mmずつ葉っぱの姿に近づいていったわけでしょ。
それって本当に彼らの「意思」とか「知恵」とか
そういう類のモンなんすか?
※1年に0..01mmずつ葉っぱになると仮定した場合、1万年後には完全に葉っぱになる図 ダーウィンの進化論はそれを
ただの偶然って言ってるのだ。
彼らは自ら変化を望んだわけでもないし、自ら葉っぱのカタチを選んだわけでもなくて、本当にたまたま偶然、葉っぱに似ちゃっただけなんだよ。それなのに物知りジジイは「天才」だの「芸術」だの褒めそやしているんだぜ。ちゃんちゃらおかしいよね。
要するに何が言いたいかっていうと、つまり「コノハムシ解釈」っていうのは、
たまたまそうなったものに対して都合のいい解釈をして持ち上げることを意味する僕がつくった造語なんだよね。(笑)
◆コノハムシ解釈の懸念◆ そんでもって、実は上述の
「ファミコン想像力論」はこのコノハムシ解釈と非常に結びつきやすいのだよ。まあ、そういう懸念があるといったらいいのかな。とにかく「非常に取り扱い注意」なんだよ。
もちろんファミコンがたまたまそうなっていると言いたいわけではないのだけど、まず大前提として全てのファミコンソフトは
当時の開発者さんが当時の最新技術で作り上げたものですよね。彼らは決して少ない容量を望んでいたわけではないし、ドット絵やピコピコ音を選んだわけでもないのだ。当時のハードの制約や開発環境で最大だった容量で、ドット絵という最新のグラフィックで、ピコピコ音という最高にかっこいいサウンドで素晴らしい作品をつくって世に送り出した結果が、今日に残る『スーマリ』とか『ドラクエ』とかいった名作の数々なわけです。でも当時の開発者さんたちはハード性能的な制約・制限など気にせずにもっともっと自由にゲームをつくりたかったはずなんだよね。もっと綺麗なグラフィックで、リアルなサウンドでゲームをつくりたかったはずなんだよ。その証拠が今日まで語りつがれている爪に火を点
(とも)すような容量節約エピソードの数々ではないのかな。我々ユーザーもそれを望んでいたからこそビデオゲーム業界は何世代もかけてハード性能や開発技術を向上させてきたわけですよね......。
それなのに、まるでファミコン時代の(今から見ると)低スペックなゲームを
「開発者が望んだすべてだった」かのように絶賛してしまうのは完全に「コノハムシ解釈」だし、ましてや現代のゲームを引き合いに出してそれよりも優れているなんて言い出すのは非常に危険なんだよ。ともすれば、いちじるしく不当な評価につながってしまうと言ってもいいかもしれない。開発者さんの中には「あの時代のゲームを俺のやりたかったことのすべてだと思わないでくれ」と思ってるひともいらっしゃるだろうからね。
もちろんファミコンが魅力的であることは100%事実なんだけど、最近のゲームに想像力が必要ないかっていわれると、そんなわけないんだよ。だから我々ファミコン世代は、いやファミコン世代だからこそ無意識のうちに「コノハムシ解釈」してないか気をつけなきゃいけないなあと思ったという話。
|  | ヘビは例外だ。称えよ! |
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