◆何もかも“説明的”な世界◆ 今さらながら任天堂岩田時代の名物コンテンツだった「社長が訊く」を読み返している。

読み返せば読み返すほど、初期スーパーマリオの世界が
何もかも“説明的”だったことに改めて驚かされるのだ。もしかして宮本茂はマリオの世界を創造するまえに「説明あれ」とでも言ったのかもしれない......。
たとえばこれはみんな学校で習ったんじゃないかというくらい有名な話なのだが、マリオのキャラクターデザインの成り立ちをからしてことごとく制作側の都合、つまり
メタ的な理由のオンパレードなのである。
宮本 足りないんです。すぐ8×8ドットになっちゃうんです。それで、鼻を描いてヒゲを描いたら口かヒゲかわからないので、そこでドットは稼げると。
岩田 ヒゲを描けば、口は描かなくていいんですよね。
宮本 描かなくていい、これは大きいです。あごは1ドットあればいいですし。それに目は、縦に2ドットで描くとかわいいかなと(笑)。で、髪の毛を描ききれないので、帽子をかぶせたら帽子は2ドットで抑えられる。
岩田 帽子も、ドット数を抑えるためにかぶせたんですか。
宮本 それに、髪の毛にするとアニメーションにするのが難しいですしね。しかも、帽子をかぶせれば、すぐ下に目があっても大丈夫ですし。
岩田 それで顔ができましたと。
宮本 でも、残りのドット数でカラダを描こうとすると限界があるんです。しかも、ちゃんと走らせたいのでアニメーションにする必要があったんですけど、当時は3パターンしかできなくて。そこで、走るとき、腕を振りますけど、動きをわかりやすくするために腕と体の色も違っていたほうがいいと思ったんです。そんな服はあるのかというと・・・。
岩田 オーバーオールですね(笑)。
宮本 そう。オーバーオールしかないんですよね。そこで、オーバーオールを着せることにしたんですけど、幸いなことに、ゲームの舞台は建築現場でしたから・・・。もうこれは大工さんと呼ぶ以外にないでしょう(笑)。
このインタビューを読むと主人公マリオのビジュアルが最初からヒゲ面
(づら)だったわけでも、オーバーオールを着ていたわけでもなかったことがわかるだろう。マリオのデザインは頭の先からつま先まで
「少ないドット絵でも視認しやすくするため」というメタ的な理由に基づいて余すところなく説明的なのだ。

勿論、だからといってヒゲ面やオーバーオールにしたのは間違いなく
天才・宮本によるセンスの賜物(たまもの)であり、その選択肢が漏れなく正解だったからこそマリオは世界的な人気キャラクターへ登りつめたわけであって、本稿はそれを否定するものではない。そのあたりは用心深く断っておく。それどころかゲームのキャラクターが何らかのメタ的な理由でデザインされることなど(とくにファミコン時代は)特段、珍しいことではなかったはず......。
しかしスーパーマリオの世界の場合は、それが
ときには残酷なまでに徹底されていたところが他作品と一線を画しているのだ。そこで今回はそんなマリオの世界を“説明”という観点から紐解いていくことにする。

<目次>
・何もかも“説明的”な世界
・甲羅を脱ぐカメの誕生エピソード
・マリオの原点≒ヨコイズムの核心
・ひたすら悲しいクリボーの存在意義
・無生物にも顔がある意外な理由
・ドッスンは生きていて楽しいのか?
・まとめ
◆甲羅を脱ぐカメの誕生エピソード◆ まずはマリオの敵がカメになった理由について。アーケード版『マリオブラザーズ』の開発エピソードから引用してみよう。
宮本 そうです。でも、どんな遊びにするかというところで行き詰まってしまったんです。すると、横井さんも原理で考える人で、せっかく床があることだし、床の下から叩いて敵を床越しにやっつけられるようにしようと。でも、実際にやってみたら、すごくカンタンなんです。あっと言う間に敵がいなくなってしまって。
岩田 自分はぜんぜんリスクを冒さずに下から叩くだけでやっつけられるわけですからね。
宮本 ですから、すごく卑怯なゲームになってしまうんですね。そこで、下から叩いて、上にあがって、そこで決定打を与えるようにしようと。
岩田 上にあがってトドメをさすと。
宮本 そこで、下から叩いてもやられなくて、やがて復活してくる。そんなものはないかと。
岩田 それでカメですか(笑)。
ご覧の通り、敵がカメになったのは
「2回でやっつけられる敵にしたい」というメタ的な理由に基づくものであって、とくに両者のあいだに因縁があったわけでも、ましてや宮本がカメの研究者だったわけでもないのだ。
それが今やマリオとカメ軍団はまるで宿命のライバルのように、シリーズを通して何十年も戦いつづけているのだから因果な話である。
※甲羅から飛び出るシェルクリーパー(カメさん) また、アーケード版では「ひっくり返ったカメが復活する直前に甲羅から飛び出す」という演出があるのだが、それも「ゲーム的に復活するタイミングがわかったほうがいい」というメタ的な理由でそのような行動をしているに過ぎない。
キャラクターデザインのみならず、
その行動までもがことごとく説明的なのだ。
宮本 結局、カメは下からたたくだけで、踏むのはできなかったんですが・・・『マリオブラザーズ』ではカメはひっくり返って、しばらく時間が経つと動きはじめるんです。けど、どのタイミングで動きはじめるかはわかりにくいんですよね。ピクピクさせてはいるんですけど、何回ピクピクすれば生き返るか、やっぱりわからない。そこで、ルールをビジュアル化することにしました。カメを踏むと中身がピョコンと出て、それがコウラの中に戻ってくると、動き始めるサインにしようと。外に飛び出したカメの中身はメーターのようなもので、それは誰が見てもわかるだろうということですね。
岩田 カメの中身を出すようなことは、ほかの人は考えもしないですよね(笑)。
宮本 でも、重大なミスに気がついたんです。カメのコウラは骨が進化したものですから、子どもにウソを教えることになってしまうと・・・
しかも宮本は「カメの甲羅は背骨からできてるため脱げない」という事実に気づき、子どもにウソを教えてしまうかもしれないというリスクを冒してまで
あくまでも“説明的であること”を貫いたのだった。そのおかげで甲羅が脱げるカメなんていうユニークなキャラクターを生み出すことになったのは何とも象徴的なエピソードではないか。
さらに同じインタビューのなかで宮本は、トゲゾーについて「踏めないカメだということがわかるようにトゲを生やした」とも語っていた。これなんかは典型的な“説明的デザイン”で言える。
◆マリオの原点≒ヨコイズムの核心◆ 次に、テレサについて説明しているところでは非常に重要な証言をしていたので引用してみよう。

宮本 テレサもあっちを向いたら、いないいないばーですよね。照れ屋さんだから、ほっぺたも赤くなるし。そんなふうに、機能がわかりやすいすいようにデザインをすることが大事だと思うんです。ただ、「ユニークなものをつくろうよ」と漠然と言われても、聞いた方はどうしていいのかわかりませんよね。そこで今回は、マリオの原点は、機能を形で表現することだから、そこから生まれるユニークなものをどんどんつくっていけばいいからという話をしました。わかりやすい方法でしょう?
マリオの原点は機能を表現すること!
何のことはない。もはや宮本自身がそう言い切っていたのだ。私はここで、かつて横井軍平がとあるWEBマガジン誌に語った内容を想起するのだった......。

ゲームボーイの生みの親としても知られる横井は滅多なことではマスコミに登場せず、ましてや自身のものづくり思想については多くを語ろうとしなかった。だが任天堂を退社した1年後にあたる1997年7月に、かつてWEB上に存在したデジタルマガジン「GAME BUSTERS」においてロングインタビューに応えたことがあったのだ。そこで彼は自信のものづくり思想(いわゆるヨコイズムというやつ)について惜しみなく語っていたのである。
なお、この記事は20年以上前のものであり、さすがに現在はサイトごと消滅しているため私がローカル保存していたアーカイブ資料から引用している。
■横井氏の考えるゲームとは
私がよく話をするのは、スーパーマリオのキャラクタがとことこ歩いて敵に遭遇してぶつかって、ここでパッタリやられてしまう。と、そこで、このキャラクタをミッキーマウスに置き換えて同じ事をさせると、やっぱり同じゲームが出来るわけですよ、一つはマリオのゲームでもう一つはミッキーマウスのゲームですよ。
もっと言えば、ミッキーマウスでもマリオでも主人公を●にして敵を■にして世の中のゲームに置き換えたら、みんな同じ物になってしまうわけですよ。じゃあ、なんのために映像を変えているかというと、私はCGいうのは、「HOW TO PLAY」を教えるものだと思っている。例えば、ミッキーマウスを操作してずっと来て、ぶつかったものが非常に奇麗なものだと味方だと思ってしまう。実際は敵なのに。だからこれを恐ろしい映像にすることによって、説明書無しにこれを避けて行こうと思うわけじゃないですか。こういう目的で、ゲームのCGを昔は考えたんですよ。
ゲーム&ウォッチのゲームを考える時に、まずは●とか■とかでどういう事をしたら面白いかを考えるわけですよ。つぎに、その映像を何に置き換えるかという時に、どうしたらそれを説明書無しに理解することができるかという「HOW TO PLAY」をキャラクタに置き換えるのです。それが本来のゲームの姿なんですよ。
今は、そのキャラクタだけが先走りして、後でゲーム性がついていってるから、ちょっとやったら飽きてしまうゲームが多いんですよ。ゲームをやり始めたら、そこにはキャラクタも色も必要無い。だから、私はそういう理念を持っているからゲームボーイを作る時に絶対にカラーにしなかったんですよ。カラーにする必要はない。
出典:横井軍平氏の「ものづくり」 ~無限のアイディアが追い続ける「ものづくり」VOL.2~ (GAME BUSTERS 1997年7月28日付)
ここにハッキリと示されているのだ。ヨコイズムの核心とは
「HOW TO PLAY」をキャラクタに置き換えることなのだと......。
ゲーム&ウオッチの時代からゲームを作り続けていた横井にとってゲームとはわざわざ説明書を読まなくとも楽しめるものでなければならなかった。逆に言えば
キャラクターがそのまま“説明書”になればよかったのである。そんな彼のことを師と仰いでいた宮本が同じような思想をもっていたとしても何らおかしくはないのだ。先のインタビュー記事を思い出してもらいたい。ルールをビジュアル化するだの、機能を表現するだの、言ってることは横井とまったく同じではないか!
◆ひたすら悲しいクリボーの存在意義◆ ただし冒頭でも述べたようにそのようなものづくり思想は、とりわけゲームの世界においては意図せず
キャラクターに残酷な運命を背負わせることがあるという指摘をしなければならない。ひときわ悲しいのはクリボーの存在である。

説明書によると彼はキノコ王国を裏切った悪いキノコということになっているのだが、その成り立ちを見てみると......。
手塚 そうです。そうやって節約しながらいろいろつくったんですけど、最後の最後でクリボー をつくることになりまして。
岩田 ええっ!クリボーは最後なんですか?(笑)
手塚 はい。あんなメインで使ってるのに、実は最初はノコノコしかいなかったんです。で、実際に人に遊んでもらうと最初の出会うのがノコノコだとちょっと難しいという話になったんです。
岩田 ノコノコは2段構えでやっつける敵ですからね。
手塚 そこで、踏むだけでカンタンに1度で倒せる敵がほしい、ということになりました。そこで、最初に遭遇するのは、クリボーでしょうと、最後の最後でつくることにしました。
中郷 ところがクリボーをつくることになったとき、使えるパーツがほとんどなかったんです。
手塚 しかも敵ですからキャラクターの動きも必要になるんです。
中郷 そこで、左右を反転させたら歩いているように見えるものにしようということで、クリボーの体はちょっと斜めになってるんです。
岩田 なるほど、2枚絵なんですね。
中郷 2枚絵でトコトコ歩くように見せたんです。
岩田 ところでクリボーがキノコと似ているのは偶然ですか?
手塚 あれ、“しいたけ”なんですよ。
岩田 “しいたけ”なんですか(笑)。“くり”じゃないんですね。
手塚 はい(笑)。
これ以上ないくらいの後付けキャラやないかい!笑。
しかも、最後の最後に「ノコノコよりも弱い敵が欲しかったため」という情けない理由で付け加えられた上に、ハッキリと言及はされなかったものの「使えるパーツがほとんどなかった」という証言から、おそらくパワーアップキノコのグラフィックが流用されたのであろう。結局
「キノコ王国を裏切った悪いキノコ」なんていう取ってつけたようなキャラ設定までつけられてしまったのだ。
そりゃあ、クリボーからキノコ王国を裏切らなざるを得なかったバックグラウンドがまったく見えてこないわけだ。だって彼には何にもないんだもの。訳も分からず裏切者ってことにされてヒゲ面のおっさんに踏みつぶされるだけの存在にされたんだもの。
悲しいなあ。切ねえなあ......。
◆無生物にも顔がある意外な理由◆ 話題を変えよう。スーパーマリオのステージ構成についてはその“説明的な構造”の巧みさが様々なゲーム研究者から絶賛されてきたので今さら私が言及するのは差し控えるが、当然のことながら背景オブジェクト自体も極めて説明的なのである。

たとえばマリオ世界の象徴的存在である土管。そもそもマリオシリーズの原点であるアーケード版『マリオブラザーズ』のステージに土管が設置されたのは「上から降りて来た敵が下にどんどんたまってしまうのを防ぐため」というメタ的な理由によるものだった。宮本が会社帰りに住宅地にあるコンクリートの壁から排水用の土管がいくつも突きでていた光景から着想を得たんだとか。
また、土管が緑色になった理由については当時、ビデオゲームでつかえる色数が少なったため、限られた選択肢のなかで
「緑はトーンを2色使ったときにキレイだったので」と回答している。
(出典:社長が訊く『New スーパーマリオブラザーズ Wii』)
※マリオ2のスタート画面。雲や木に顔がついている。 ただしそんな話よりも、ここで注目したいのは
「背景オブジェクトに描かれた顔」なのだ。マリオの世界では『2』以降のシリーズにおいて、なぜか生物のような顔を持っている無生物が散見されるのである。たとえば『2』のタイトル画面をじっくり観察してみると、雲、木、キノコに顔のようなものがついていることがわかるだろう。
その理由について、たった2行ではあるのだが「社長が訊く」にて面白い一幕があったのを私は見逃さなかったのだ。
松浦 僕が初めて『マリオ3』を遊んだとき、背景の山や雲に目がついているのに驚いて・・・。
岩田 それは手塚さんの仕業ですね(笑)。
手塚さん、何やってんすか......。
これは大変なことだ。なぜなら、このイノセンスな行為によってマリオ世界の生命に関する謎が一層深まってしまったからである。ただ、どこまでが生物でどこまでが無生物なのかというマリオの世界の
命の境界線問題はシリーズを重ねるごとに、無生物だと思っていたキャラクターに人格が与えられたりするなど(たとえば
ピンキーとか)混沌を極めており、賢明な研究者なら静観しているのが現状だ。
◆ドッスンは生きていて楽しいのか?◆ ともかくこの問題については、奇しくも2チャンネル発祥のネットスラング「
ドッスンって生きてて楽しいの?」という言葉がわりと心を食っているのではないかと私は思うのである。
出典:『スーパーマリオブラザーズ3』説明書 たしかにドッスンはクリボー以上に典型的な
“説明的な世界”が生んだ闇深きキャラクターなのだ。全身トゲトゲなのは触れたらダメージを喰らう記号であって、四角い体は一直線にしか進まないという記号に過ぎない。のちのシリーズでは落下直前に表情が変わるところを見ると顔はプレイヤーに動き出すタイミングを伝える役割(カメの甲羅と同じロジック)を意図してつけられたのだろう。
この世界の創造主はたったそれだけの理由で彼に命を与えたのだ。
マンマミーヤ!(なんてこったい!)

したがって残念ながらと言うべきか、ドッスンが生きていて楽しいかどうかなんて考慮されているわけがないのである。この世界では誰一人として“説明”から逃れることはできないのだから。“説明”の外に出ることもできないのだから、彼に与えられた“説明”がそうである限り彼はそうやって生きるしかないのである。
あるいは残酷なようでいて実はそうでもないのかもしれない。それは我々が普段カビやフジツボに同じ質問をしない理由と同じである。つまりドッスンが生きていて楽しいかどうかなんてそもそも考慮する必要がないということだ。彼は“説明”と調和することで生命としての安寧を約束されるのだから“説明”にさえ従っていれば幸せなのだよ。きっと。言うなればマリオの世界では“説明”こそが法律であり、物理であり、神なのだ。(讃えよ!)
ただし
顔が楽しそうに見えないところが最大のネックではあるのだが......。

おとなしいキノコ一族は、皆その魔力によって岩やレンガ、つくし等に姿を変えられてしまい、キノコ王国は亡びてしまったのです。出典:『スーパーマリオブラザーズ』説明書(ものがたりは『2』と共通)
最後にもうひとつの可能性を紹介しておこう。これもまたみんな学校で習ってるんじゃないかと思うくらい有名な話なのだが初代『スーパーマリオブラザーズ』の説明書には
「キノコ一族は岩やレンガなどに変えられてしまった」という記述が見られるのである。
このことからドッスンはクッパ側についたキノコ一族の成れの果てかもしれないということが考えられるのだ。でも、だとしたら岩にされた上に裏切者って、クリボーより100倍くらい闇深くないかい!?
◆まとめ◆ キリがないのでそろそろまとめに入ろう。オフィシャル髭男dismの「アポトーシス」という曲には以下のような一節がある。
解説もないまま
次のページをめくる世界に
戸惑いながらオフィシャル髭男dism「アポトーシス」より
J-POPの歌詞に「解説」というワードが出てくるなんて斬新だなと思ったので印象に残っていた。仰る通りひとは解説がないと戸惑ってしまう生き物なのだ。しかしそれは何も人生だけの話ではない。ゲームだってそうではないか!
幸い、人生と違ってゲームにはそのために説明書が付属するわけだが、これまで述べて来た通り、横井軍平は説明書を否定し「キャラクターがそのまま“説明書”になればいい」と説いたのだった。宮本茂はその思想をさらに発展させ、ステージから背景からアイテムからキャラクターまで、ありとあらゆるすべてのものを“説明”に基づいて生み出してみせたのである。それが『スーパーマリオブラザーズ』の世界だったのだ。そう考えると宮本はゲームづくりの天才であると同時に
“説明の天才”でもあったことに、私は気づかされるのだった。つまり“説明”をゲームにする天才ということである。
もしかしたら我々は彼のゲームではなく、彼の説明を楽しんでいるのかもしれない......。
|  | のっぴきならない事情によりタイトル変更しました、、、 |
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