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ファミコン開発物語「3年独走しろ」伝説は本当か?

◆マニアが注目する一文◆

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40周年のお祭りムードのなか、先日、NHKがファミコンに関する記事を掲載した。ちなみに冒頭で紹介されている大阪府阪南市のレトロゲームの展示会には私オロチも展示側として参加させてもらっているのだが※参照記事、今回はそんなレトロゲームの展示会の喧伝ではなくて。笑。古川社長へのインタビュー部分にフォーカスを当ててみたい。

といっても注目すべきは内容ではない。インタビューに入る前のこの一文だ↓

3nennkan.jpg 
「3年は他社に追随されないものを、お客さまが求めやすい価格で実現する」こうテーマを掲げ、開発が推進されたというこのゲーム。

出たー!!。

ファミコン開発秘話が語られるときに必ずと言っていいほど出てくるエピソード。いわゆる「3年独走しろ」伝説だ。これは当時の山内社長がファミコンの開発を上村氏へ命じるさいに放った言葉とされている。この記事では古川社長の発言というよりも地の文として登場していたのだった。

それがどうしたって?。いやいや、これが疑惑のエピソードなのよ。たとえば1993年12月25日発行「任天堂が危ない」にはそのときのことが以下のように記述されている。

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「少なくとも他社が一年は追随出来ないものを作れ」というのが、新商品のハード開発スタッフに、山内社長から与えられた至上命令だったという。 
(出典:任天堂が危ない,馬場宏尚,エール出版社,1993/12/25,P85)

1年やん。
3年じゃなくて1年やん。

そう、実はこのエピソード、出始めのころは1年だったのだ。でもそれがいつの間にか3年ってことになっちゃってるんだよ。10倍だぞ。10倍!(違う)

え、そんな細かいことなんてどうでもいいって?。大丈夫。これが弊ブログの平常運転だ。それにこれは私が今はじめて指摘したことではなくて、ちゃんと先行研究があり一部の任天堂マニアたちはずっと頭の片隅で気にしていたことなんだよ。で、今回、久々にNHKの記事でこの一文を見てしまったもんだからエンジンがかかってしまったってわけなのだ。こうなったら徹底的に調査するしかあるまい。

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というわけで、今回は「3年独走しろ」伝説の謎に迫ります。




◆ファミコン開発前夜◆

まずは簡単なおさらいから。
そもそも任天堂の山内社長が当時、開発第二部の上村さんへファミコンの開発を命じたのは1981年のことだった。ちなみに開発第一部はあの横井軍平さんが率いていてゲーム&ウオッチをつくっていた。そう、その頃の任天堂はゲーム&ウオッチの爆発的ヒットでてんやわんやだった時代だったのだ。そんな中、山内さんは慢心することなく次の手を打っていたというわけである。

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画像:wikipedia


ただ、書籍「ファミコンのその時代」によると上村さんは1978年頃にはすでに次なるテレビゲームの構想を練っていたようだ。というのも任天堂は1970年代後半には「カラーテレビゲーム」などで一度、テレビゲーム業界に挑戦していてそこで一定の成功は収めているのである。

※参照記事:『カラーテレビゲーム』を成功させた任天堂の奇策とは!?

ただし、当時の技術水準が彼らのやりたいことに追いついておらずそれ以上の展開はできなかったらしい。その後G&Wがヒットして資金的にも余裕が出てきたのだろう。書籍「任天堂商法の秘密」にそのときのことが以下のようにつづられていた。

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任天堂第二開発部長の上村雅之が、山内からファミコンの開発を命じられたのは、昭和56年のことであった。そのとき山内は電話で一言、こう伝えてきたという。「少なくとも一年間は、他社が絶対に真似のできないものを出せ」 他社が真似できないものという内容には、二つの意味がある。一つは中身で真似できないもの、もう一つは価格で真似のできないという意味である。
(出典:任天堂商法の秘密,高橋健二,祥伝社,1986/6/10,P146)

まさか山内社長
電話で命じていたとは......。(そこ?)

「少なくとも一年間は、他社が絶対に真似のできないものを出せ」

そうそう、我々に馴染みがあるのはこっちの一文なんだよね。1986年に発行されたこの本は山内社長が前面に押し出された表紙からもわかる通り、まだ任天堂が日本のマスコミを大嫌いになる前に取材された貴重な資料である。笑。したがって信憑性はかなり高いと言っていいだろう。しかも結論から先に言ってしまうと今回、調査した限りではこの本がもっとも古い文献だったのだ。

ただし地の文での伝聞形式なのでさらに出典がある可能性は否定できないだろう。そこで、本書の参考文献を載せておくので、もし持ってるよって方がいらっしゃったら確認して私に教えてください!。

<参考文献>
・日経パーソナルコンピューティング「スペシャルレポート爆発するファミコンパワー」(1985年12月30日号)
・NRIリサーチ「任天堂」(1985年4月号)
・プレジデント,沖田雅哉「任天堂『先手必勝』で築き上げた電子ゲーム帝国」(1983年7月号)
・プレジデント,鎌田慧「『ファミコン』で『大儲け』した男たち」(1985年4月号)
・プレジデント,江坂彰「任天堂『ファミリーコンピューター』」(1985年8月号)
・週刊ダイヤモンド,山内溥「娯楽はつねに"異質"の創造が必要です」(1984年12月15日号)
・週刊東洋経済「任天堂の奇跡が再現」(1984年11月17日号)
・週刊東洋経済「ファミコン現象の解剖」(1986年11月17日号) 




◆山内社長の目論見◆

というか、そもそもの話として山内社長は何で上村さんにそんなことを命じたのだろうか。彼には一体、どんな目論見があったのだろう?。

同じく1986年に発行されたファミコン頭のサラリーマンが表紙のこちらの文献では、まえがきの部分に本エピソードがまるで既成事実のように記載されていた。

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「発売して1年以上は他社が絶対追いつけない技術」「その1年が保てれば市場の独占が可能である」この二つの読みが見事に融合して、ファミコンの巨大な成功がもたらされた。
(出典:ファミコンブームが崩壊する日,片山聖一,秀和システムトレーディング,1986/11/20,P4)

そこにはちゃんと山内社長の狙いが書いてあったのだ。彼は1年間だけ儲かればいいという短絡的な考えでそう命じたわけではない。ファミコンが1年間独走できれば“その後も市場を独占できる”というサスティナブルな目論見が彼にはあったのだった。

なるほど。正直、私も前者の意味で捉えていたのでこれは盲点だったぞ。

さらに、こちらの文献では矛盾する二つの命題という切り口でこのエピソードが紹介されていた。

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そもそもファミコン陣営の原点は、「同じものが一年間以内に出てこないだけの高機能性、同業他社が追随できないほどの低価格性」という矛盾する二つの命題を解決するところにあった。
 
(出典:ファミコン陣営の野望,西田昇平,電波新聞社,1986/11/30,P44)

記述はやはり「1年間」である。しかし誰が誰に言ったかまでは書かれていなかった。

ただ、この章はファミコンICを開発したリコーの進藤晶弘氏にインタビューしている場面であり、このあとに進藤氏がとくに不審がる様子もなく「例えば一年間同じものが出てこないような~」と受け答えしているので、少なくとも任天堂とリコーのあいだにこのような共通認識が存在したことがわかるのだ。

いいね。順調に調査が進んでる。



◆300万個保証伝説は虚構!?◆

ここで余談というか、むしろ重要かもしれない話を挟んでおこう。

ファミコン開発秘話のなかで「3年独走しろ」伝説と同じくらい有名なエピソードがある。それは当時、任天堂がファミコン専用カスタムチップをリコーへ発注する際に「2年間で300万個保証する」と言ってコストダウンさせたという「300万個保証伝説」だ。

こちらのエピソードは先述の「任天堂商法の秘密」にも紹介されており、3年独走伝説とセットで語られることが多いので何の疑いもなくファンに受け入れられている印象を受けるが、実は山内社長からキッパリと否定されていることをご存知だろうか?。

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「三百万台保証だなんて、そんな発注はしていませんよ。雑誌などにはいろいろ書いてあるようだけど、私はリコーさんに、三百万台発注する、なんて言ってません。あれは虚構の産物ですよ。実際には、どうですか、これ(二千円)でやってみて下さい、と言ったのに対して、じゃあ、やりましょう、という話だった。三百万台という話はありませんでした。(中略)むしろ決断はリコーさんの方にある。それが実際のところです」
 
(出典:任天堂の秘密,上之郷利昭,現代出版,1986/6/15,P80)

バッサリ斬られてるやん。笑。
 
もちろん、何らかの意図があって否定してみせてるだけの可能性もあるので真意のほどはわからない。とくに山内さんはそういうところがあるので私なんかはこの発言でもって「どうやらそのような取引があったようだな」と逆に思ってしまうんよ。笑。
しかし、たとえしらばっくれているだけだとしても「山内社長から否定されたことがある」という事実には変わらないので、このネタの取り扱いには十分注意したいところだ。



◆「3年」になったタイミング◆

さて「3年独走しろ」伝説に話を戻そう。といっても冒頭で紹介した1993年発行「任天堂が危ない」をさいごに1年表記のほうは見られなくなってしまった。どうやらきっかけはファミコン20周年だったようだ。

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それは山内さんの慧眼だと思います。最初に山内さんが開発陣に言ったのは、「3年間はほかから真似されないものにしろ」ということでした。 
(出典:ファミ通2003年8月1日号,エンターブレイン,P114)

出た。強面広報部長の今西さん!。

この頃は任天堂の顧問という立場になっていた今西さん。ここで彼はハッキリと「3年」と言っているではないか。これはヤバいことになったぞ。今まであくまでも外部の取材者による伝聞形式だったのに、ここにきてついに任天堂内部の人間の発言だ。つまり公式アナウンスになった瞬間である。

同じくファミコン20周年のときのニンドリを見てみよう。

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今西 最初の山内社長の指令は「とりあえず、3年間マネをされないもので、価格は1万円以下にしろ」と。
 
(出典:ニンテンドードリーム2003年8月21日号,アンビット,P4)

こちらの文献は初代ファミリーコンピュータマガジン編集長の山森さんが今西さんを直撃するという形式の記事だった。やっぱりどう見ても3年って言ってるなあ......。

つづいてはWEB記事だ。

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上村 そういう意味では、その延長線上にある商品ということになるんですけど、そのときに山内さんが条件を出されて、これまでのようなソフト内蔵式のテレビゲームではなく、その当時、主流になりはじめたカセット方式を採用して、しかも「3年間は競争相手が出ないような機械をつくれ」と。
(出典:社長が訊く「スーパーマリオ25周年」,任天堂,2010/9/13更新,上村)

25周年のときにはファミコンの生みの親・上村さんまでもが「3年」と言い切っていた。

さらに30周年のときに至っては......。

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上村 ところがそのときは、3、4日たってから、また電話がかかってきて「3年間、保つようにしろ」と言われたんです。そこで「3年って、そんなもん、社長、無理ですよ」と言ったんですけど、「いや、ゲーム&ウオッチの状態を見ていたら、3年や。3年は保たせてくれなアカン」と。で、「キミのところはヒマやと思うからよろしく頼む」と。
(出典:上村雅之さん 大いに語る。 ファミリーコンピュータ インタビュー(前編),ニンテンドードリーム,2013年10月号,上村)

山内社長から電話で指示されたこと。そしてそのときのやりとりを面白おかしく話されていた。ここまで詳細に再現されたら「信じるな」というほうが難しい。



◆伝説の副成分として◆

一方、ファミコン関連としては間違いなく特級資料である上村自身が著した書籍「ファミコンとその時代」にはどういうふうに記述されているだろうか。さっそく第3章「ファミコン開発とその設計思想」を血眼になって読み込んでみたが、残念ながらそれらしき記述は見当たらなかったのだ。

まったくもって物語性を排除し淡々と事実のみを記述していくスタイルだ。だが、このまま「なんの成果も。得られませんでしたあ!!」で終わるわけにはいかないので、それとなく匂わせてる記述をピックアップしてみよう。

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ゲーム&ウオッチが一種の独占状態にあった約一年間は、開発者が開発して世に送り出した商品を遊び込んだユーザーがそのゲームの内容を知り尽くした頃になると、次の商品が発売されるという循環が生み出されていた。(中略)結果としてこの約一年間の独占状態の循環は、ゲーム&ウオッチを次々と購入したユーザーにとって、任天堂の開発者が考える遊びに対する信頼と期待を培う期間となったことは間違いない。 
(出典:ファミコンとその時代,上村雅之,NTT出版,2013年7月4日,P89)

これはファミコンよりひとつ前のゲーム&ウオッチ時代の話なのだが、ここで上村さんは一年間の独占状態の循環がいかに重要かという話を説いておられたのだ。この「1年間」という数字はゲーム&ウオッチ時代のキーワードだった。それが次に開発されたファミコンに大きな影響を与えたとしても何ら不思議ではない。

では、もうひとつのファミコン特級資料である日経エレクトロニクスに1994~95年にかけて連載された「ファミコン開発物語」にはどのように記述されているだろうか。なお、こちらの文献については日経クロステックのWEBサイトにて「ファミコンの開発」というそっけないタイトルで有料会員向けに再掲載されているので、そちらを調査してみた。

すると......。

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(1)価格を下げるにはチップ面積が小さいほうが望ましい、(2)他社から真似をされないためには国内であまり普及していないアーキテクチャのほうがよい、という2点を考慮し、6502を採用することを上村は決断する。実際、玩具メーカ他社がファミコンのCPUを突き止めるには、発売後1年程度の時間が必要だったという。
 
(出典:日経エレクトロニクス1994年12月19日号,ファミコン開発物語

いわゆる独走伝説的な文章は見つからなかったのだが、「他社」「真似」「1年間」という共通するキーワードが散りばめられている一節を見つけることができたのだ。上述した「ファミコン陣営の野望」のニュアンスに近い内容だ。ただし、これは山内社長の命令ではなく上村さんが独自に判断したことになっていた。

この記事はファミコン開発について他に類を見ないくらい詳しい内容が記述されていて個人的には一番信頼している文献だ。上述の「ファミコンとその時代」が中のひとからの特級資料ならば、こちらは外のひとからの特級資料といったところか。

したがって「他社がファミコンのCPUを突き止めるには1年程度の時間が必要だった」という話が、伝言ゲームのように巡り巡って伝わった結果、山内社長が「3年は独走しろ」と言った話になった可能性もゼロではないだろう。少なくとも伝説を構成する副成分のひとつにはなっているはずである。



◆玩具業界のジンクス◆

さて、こういうことを調べるときに抜きにできないのは時代背景である。ファミコンの開発がはじまった1981年当時の玩具業界はいったいどのような状況だったのだろうか。調べていくと、その頃の業界の姿を如実に表しているとあるジンクスに行き着いたのだ。

これだ↓

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「オモチャは三年もたない」 
(出典:任天堂の秘密,上之郷利昭,現代出版,1986/6/15,P84)

う~ん。なるほど。

しかしなんだろう。私はこのジンクスに少し違和感をおぼえたのだった。なぜなら1950年代、日本全国を熱狂させたフラフープブームはわずか1ヶ月で終了。60年代のダッコちゃんブームが半年で終焉。70年代のインベーダーブームですらたった1年半で沈静化していたことを考えると、正直、3年って長すぎないか?

そんなこと考えながら他の文献を漁っていたら「ファミコン・シンドローム」という書籍には以下のような記述を発見した。これだ↓

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「玩具は一年もてば充分」
(出典:ファミコン・シンドローム,片山聖一,洋泉社,1986/3/8,P96)

おい。
やっぱり1年やないか!。笑

ただの偶然だとは思うが、玩具業界のジンクスも「1」と「3」という数字の間で揺れていることがわかったのだった。果たして、これは本当にただの偶然なのだろうか?



◆山内社長の胸のうち◆

次に山内社長自身にもスポットを当ててみよう。当時の資料を読みすすめていくと山内社長には特徴的な口癖があることがわかった。書籍「任天堂商法の秘密」より要約して引用。

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任天堂の急成長がよく話題にのぼるでしょう。なにか大層な戦略展開をしたように見えるかもしれない。しかし事実はまったく違うんですよ。明確な経営戦略などあったわけでなく文字通り試行錯誤の連続で。その失敗の積み重ねの中でたまたま幸運に恵まれただけ。任天堂は運が良かっただけなんですよ。
(出典:任天堂商法の秘密,高橋健二,祥伝社,1986/6/10,P78)

戦略などない。
運が良かっただけ。

山内社長は何のてらいもなく、かといって妙にへりくだるわけでもなく、淡々とそう語ったとされる。それはまさに「運を天に任せる」という任天堂の社名の由来にもなった精神だ。当時、山内さんはマスコミに向けて本当にしつこいくらい繰り返し繰り返しこの「運が良かっただけ」と言葉を連発しているのである。

決して本音を口にしないスタイル。いかにも山内さんらしい。しかし完全にブラフだったとも言い切れないところが当時の任天堂である。というのも同社は今でこそ日本を代表する世界的企業のひとつではあるのだが、実は1950~70年代にかけて新事業に失敗しまくっていたのだ。

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※「ママベリカ」 交通事故保険つきのベビーカー 

かつて任天堂が食品、タクシー、射撃場、コピー機、ベビーカー、など他業種へ参入して、ことごとく失敗を繰り返してきたことはマニアでなくても知っているひとは多いだろう。

参照記事:任天堂「失敗の歴史」 ~インスタントライスから3DSまで~

そんな苦い経験をしてきた山内さんがいくらG&Wで一山当てたからといって、1年先どころか1ヶ月先ですら見通せないような玩具業界で「3年独走しろ」なんて無鉄砲な命令を出すだろうか?。



◆まとめ◆

そろそろまとめに入ろう。
今回、様々な角度からファミコン開発に関する「3年独走しろ」伝説について調査してわかったことを以下に箇条書きしてしていく。

・初出は1986年の書籍(暫定)
・そのときは「1年間」だった。
・任天堂とリコーの間でも「1年間」という共通認識があった。
・それが「3年間」に変わったのはファミコン20周年の2003年。
・25周年の2008年には開発者の上村氏も「3年間」と発言。
・そもそも山内氏の発言は「1年もたせる」という意味でなかった。
・1年独走すればその後「市場を独占できる」という意味だった。
・だとすれば3年は長すぎる。
・ちょっと盛ってるよね?
・当時の玩具業界ジンクス「玩具は3年もたない」
・それどころか「1年もてば充分」という見解もあった。
・過去には1ヶ月もつづかないブームもあった。
・事実、ゲーム&ウオッチの新型は1年経てば飽きられていた。
・したがってG&W時代は「1年独走の循環」を意識していた。
・ファミコン開発物語にも「1年間」というキーワードが出てくる。
・その1年とは他社にCPUを突き止められる期間だった。
・そう考えるとやっぱり「3年」というワードは唐突すぎる。
・やっぱり、盛ったよね?
・ファミコン20周年のときに盛ったよね!?

なお、これは新たなる事実が発覚したさいには随時、アップデートしていくものとする。

ということで今回の調査はこれまでとしたいわけだが、最後にひとつだけ断っておこう。例の「ゲームの歴史」騒動の口火を切った人間がこんなことを言うのは少々気が引けるのものの語弊を恐れず申し上げるならば、私はゲームに限らず誕生譚については神話であってもいいと思っているクチなのだ。世界中のあらゆる地域・民族のあいだに伝承されている創世神話がそうであるように、誕生譚には「夢」と「ロマン」があってしかるべきである。もちろん、それが明らかに時代背景と合わなかったり、歴史的事実と矛盾していたりしてるならば話は別だが、そうでないならば神話でいいじゃないか。

それは今回取り上げた「3年独走しろ」伝説に関しても例外ではない。決定的な矛盾や間違ってる証拠が出てこない限り、むしろ私は伝説の共有者になりたい。別に3年だっていいのだ。私はそれを信じたいだけ。信じたいからこそ調査しているのだということを最後に主張させていただきます。でも、やっぱり......。

盛ってるよね!?


<参考文献>
「ファミコンシンドローム」 1986/3/8 洋泉社
「任天堂商法の秘密」 1986/6/10 祥伝社
「任天堂の秘密」 1986/6/15 現代出版
「任天堂のファミコン戦略」 1986/6/15 ぱる出版
「ファミコンブームが崩壊する日」 1986/11/20 秀和システムトレーディング
「ファミコン陣営の野望」 1986/11/30 電波新聞社
「テレビゲーム―電視遊戯大全」 1988/6/1
「任天堂大戦略」 1990/12/15 JICC出版局
「任天堂ガリバー商法の秘密」 1991/3/11 日本文芸社
「任天堂が危ない 」 1993年12月25日 エール出版社
「日経エレクトロニクス」 1994年12月19日号
「It’s The NINTENDO」 2000年2月1日 ティーツー出版
「ゲーム大国ニッポン 神々の興亡」  2000年7月10日 青春出版社
「週刊ファミ通」 2003/8/1号 エンターブレイン
「ニンテンドードリーム」 2003年8月号 アンビット
「ファミコンとその時代」 2013/7/4 NTT出版
「ニンテンドードリーム」 2013年10月号 アンビット

<WEBサイト>
社長が訊く「スーパーマリオ25周年」
ファミコン発売40年 任天堂社長に聞く
ファミコンの開発( 日経クロステック)
Runner's High!

<協力者>
BAD君(日本ビデオゲーム考古学会)



orotima-ku1.png他に参照すべき資料があったら教えて下さると助かります。


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コメント

面白く読ませていただきましたが、ちょっとオロチさんらしくない結論になっている気がしました。

当時のファミコン開発の証人として申し分ない、任天堂の上村氏と今西氏が”それぞれ別のインタビューで”「3年」だったと答えているのだから、むしろ「3年」のほうが信憑度は高いように思えます。

>1年先どころか1ヶ月先ですら見通せないような玩具業界で「3年独走しろ」なんて無鉄砲な命令を出すだろうか?

R&Dに属する立場からのコメントですが、1年は独占できたゲーム&ウオッチの次に、社長が”それ以上(3年)”を指示することは、競争の激しい業界ではおかしくないと思います。
(開発者にとっては無茶ぶり以外の何物でもありませんが)

「3年真似されない商品を」というのは、無鉄砲な命令というより、ハードルの高い「課題」だったと考えるべきではないでしょうか。

ファミコン1万円以下の指示も、結局実現はしませんでしたが、その指示があったからこそ最大限まで安くできたという面はあると思います。

コメントありがとうございます。たしかに「3年」という数字には、ゲーム&ウオッチが1年だったのだからファミコンはそれ以上という意気込みが込められていたのかもしれません。
はてなブックマークのほうのコメントで、マスコミ向けには1年、内部では3年と言っていたかもしれないというのがありました。あるいは、最初は1年と言ったが、あとから3年に修正したかもしれない。いろいろパターンは考えられますが、ご指摘の通り、今回の記事は山内社長が本当に「3年」と言った場合の可能性をあまり書きませんでした。(まったく考えてなかったわけではありません)
最後のお断りでも申し上げたとように、今回は「信じたいからこそ疑っている」というスタンスで書いたのでそのような形になりました。

オロチさん、返信ありがとうございます。

記事の最後に「盛ってるよね!?」と書かれていることから、オロチさんはどちらかというと「1年」のほうを正しいと思われている印象を受けました。
その理由としては「当時の玩具寿命の常識に反するから」が大きいのでしょうか?

上村氏と今西氏と口裏を合わせて(?)までして1年を3年と盛る理由があまりない気がするので、伝聞でないほうの数字に疑いをもたれているスタンスがちょっと意外に思えました。

了解です。

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