<クソゲーから世の中の不条理を学んだファミコン世代> 先日、このブログでも紹介したことのある『
ジョージ・ポットマンの平成史 ファミコン史』がテレビ愛知でも放送されていたので、この地方でもやっと見ることができた。内容はものすごい面白かったんだけど、今回はそのなかでもとくに印象に残った言葉について。
それは東京未来大学こども心理学科の出口保行教授が放った言葉である。
だいたいこんなようなことを言っていた。以下引用。
クソゲーに共通して言えるのは「不条理」。 弱すぎる主人公や絶対にクリアできない歪な世界がそこにはあった。 つまりファミコン世代は、世の中の「不条理」を受け入れる準備が できていて、どこか達観したところがあるのではないか。
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番組では主なクソゲーの紹介で、弱すぎる主人公として『スペランカー』、絶対クリアできないゲームとして『頭脳戦艦ガル』が紹介されていた。教授の言葉はそれをふまえたものだと思われる。
たしかにファミコン時代のクソゲーは「不条理」さのレベルが違う。現代のこどもたちはただでさえファミコンを難しいと感じているらしいが、さらにそのクソゲーだもんね。
参照リンク:
なぜファミコンは難しいのか? 10の回答パターン そして教授の言葉につづいてナレーターが「それゆえファミコン世代は
“出世を望むよりも自分の時間が持てればいい”というスタンスで生きてる」というようなことを補足していたのだ。
僕はどっちかというとこっちの言葉のほうにグサッと来たんだけどね。(いっしょに見ていた嫁に「当たってるじゃん」とほざかれたのは言うまでもない)

まあそれは置いておいて、教授の言葉にはすごく共感するところがあって、というよりも僕も前から同じようなことを考えていたのだ。でもそれはクソゲーに対してじゃなくて学校教育に対してだった。
<僕たちは学校で十分、不条理を学んでいた> 僕たちの時代の校則はやたら厳しかった。
靴は白。靴下も白に限る(ワンポイントまで可)。学生服のズボンはノータック。必要以上に太いもの(ボンタンっていった)は不可。ボタンはつぶしちゃいけない。カラーは外しちゃいけない。髪型は坊主に限る(こんへん、時代を感じるね)。などなど・・・・・・
挙げていったらキリがない。でもこの程度ではたぶん全国的に普通レベルで、もっと厳しいところなんかいくらでもあったろう。
これらの校則は今考えると「不条理」だ。ルールのためのルールでしかない。でも僕たちは“ルールを守ること”自体を体に教え込まれ、それらの「不条理」を乗り越えてきた。(道を外してるやつもいっぱいいたけどね)
校則だけじゃなく授業においても同じことがいえる。
「πなんて俺の人生に関係ねえ」とか「ラ行変格活用なんか知らなくても生きていける」とか愚痴ってるやつは多かったが、それもまた「不条理」を受け入れる練習だったと思えばね、ちょっと話が散らばってきたかな・・・・・・
とにかく、なんていうか、そう、
学校なんかクソゲーみたいなもんだったのだ。
それでも学校が楽しかったのは、やっぱり僕が日ごろからクソゲーをやって鍛えてられていたからなのかもしれない。そう考えるとよく「若いときの苦労は買ってでもしろ」と言われるが「
若いときのクソゲーは買ってでもしろ」ということだったのだ。(クソゲーなら売ってるからね)
向上心がないって言われようが知ったこっちゃない。クソゲーを楽しめるようになれば学校も楽しめるし、世の中だって楽しめるってもんだ。
<今こそ僕たちクソゲー世代の真価が問われるとき!!> ちょうど同じ時期に『伝染るんです』のような不条理漫画とよばれるジャンルが流行ったのは偶然じゃなかったと思う。僕たちはまさしく不条理世代、言い換えれば
クソゲー世代である。(言い換えるなよ・・・・・・)
僕はクソゲーには2種類あると思っている。
・クソゲーになるべくしてなったもの
・クソゲーになるしかなかったもの この2種類だ。
『たけしの挑戦状』なんかは前者だろう。
『ミラクルロピット』なんかは後者だろう。
この違い、伝わってるかな(笑

はたして僕たちクソゲー世代は前者だったのか、後者だったのか・・・・・・
ジョージ・ポットマン氏も言うように、平成の世に突入して四半世紀が過ぎようとしている今、僕たちは日本社会の中心世代となりつつある。そんな今こそ、僕たちクソゲー世代の真価が問われるとき、言い換えれば『たけしの挑戦状』なのか『ミラクルロピット』なのかが問われる時ではないだろうか。(どっちでもねえよ!)
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